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表現の自由研究「自己」

本当は5月頭に書こうと思っていた記事。
しかし文献を読むにつれ(まだ足りない…もっと資料集めなければ…)と思い、泣く泣く時間を費やしました。

今回は、次回執筆を予定している表現の自由研究最終稿『写真』に向けた、助走となる記事。
写真、もとい表現を考えるうえで、自分自身について再度見つめなおす必要がある、と常々感じておりまして。
文献を読んでみて、この考えは実に的確であったと実感しています。

さて。
この記事での結論を先に申し上げると、

あなたが認識している世界は、ありとあらゆる点で歪んでいる

です。
さらにその事実をもとに、私自身の認知について、そして次回記事に向けた方針の検討など。
言うなれば、誰かのためではなく、私自身のための記事です。

何か参考になる情報があればうれしいかも。

前回記事はこちら。

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本当の自分

よく20代前半くらいの若者が「自分探しの旅」と称してインドあたりに荼毘に出る話を聞きます。
私は社会人になってから、プロレス観戦に乗じて日本国内をあちこち行ってました。

さて、「自分探し」と称して旅をして、果たして自分というものは見つかるのでしょうか。
私にからすると疑問です。
なんせ遠い果ての地に、自分を見つけ出すヒントがあるとは思えないからです。

こんな屁理屈は置いといて。
自分探しというのは、おそらく「本当にやりたいこと探し」だと思うので話がずれています。
では「本当の自分」ってどうしたら見つかるのでしょうか。

榎本博明著『〈自分らしさ〉って何だろう?』(参考文献[1])ではこう説明します。

いくら本を読んだり、セミナーに参加しても見つからないため、さらに読みあさり、手当たり次第に参加する。それは結局、そんなことをしても「ほんとうの自分」なんか見つからないと言っているようなものではないか。そもそも、「ほんとうの自分」というう言い方自体に、何かいかがわしさを感じてしまう。今の自分は「うその自分」だと言っているわけだから。

参考文献[1]
p.37

自己とは

フランクな表現としての自分ではなく、もう少し固い表現でいきましょう。
サブタイトルでもある「自己」について考えます。

榎本は次のように述べています。

社会学者クーリーは、自己というのは社会的なかかわりによって支えられており、それは他社の目に映ったものなのだから、「鏡映きょうえい自己」と呼ぶことができるという。
(中略)
他者の目という鏡に映し出されない限り、僕たちは自分の人柄や能力といった内面的な特徴を知ることができない。他者の反応によって、自分の人柄や能力がどのように評価されているかがわかり、自分の態度や適切でだったかどうかを知ることができる。

参考文献[1]
p.47-48

僕たちの自己は、相手から独立したものではなく、相手との相互依存に基づくものであり、間柄によって形を変える。

参考文献[1]
p.72

つまり、「自分」という存在の形を思い知るには、おのずと他者が必要になってくるのです。
逆に言うと、社会性動物としてヒトが繫栄する過程で、他者を通じて自分を顧みることで群れの調和を保つ能力を獲得してきたのでしょう。
自己は巨大なシステムの一部なのです。

また「自己」を形成する要素として「アイデンティティ」が挙げられます。
アイデンティティを確立する要素として、発達心理学者エリクソンの主張から3つ、

①自分というまとまりがあり、それが時間的に連続性を保っているという感覚
②そのような自分らしさを他者も認めているという感覚
③自分が社会的役割を担う存在になっているという感覚

参考文献[1]
p.99

を並べています。
①は何かしら自分の中に一貫性を持ち、それが自分であるという感覚、つまり自己完結するもの。
一方の②③は、自分以外の存在(他者や社会)とのかかわりを通じた感覚が必要であるとしており、上述した「鏡映自己」を補強しています。

こと現代においてはリアルでの人づきあいが希薄になりつつあり、かつ転職も以前より活発な世の中です。
他者からの承認はSNSで求めるようになり、社会的役割は獲得することは以前よりも困難になっています。
いわば「自分を見失いやすい時代」、と。

頭の中にいる子供の自分

さて、ざっと「自己」について説明しましたが、少々足りていないと私は感じています。
「いくら貢献しようと、褒められようと、どこか自分を認められない」という感覚がぬぐい切れないのです。

仮にアイデンティティの要素に従って確立に向かったとて、自己の確立にはまだ不十分なのです。
そこでシュテファニー・シュタール著『「本当の自分」がわかる心理学』(参考文献[2])を参照します。
この本で、無意識に自分を操る「内なる子ども(=信念)」という概念を導入しています。

心理学における「信念」とは、心の奥深くに根ざしている確信で、自分自身と人間関係に対する考え方を意味します。たとえば「私は大丈夫!」「私はダメだ!」といったようなものです。0歳のうちに早くも多くの信念が養育者との相互作用によって生まれます。また、私たちは通常、子供時代とその後の人生を過ごす中でポジティブな信念とネガティブな信念の両方を持つようになります。

参考文献[2]
p.22

本書ではこれらが誕生後の6年間で概ね出来上がるとしています。
さらに、誕生後の2年間で「自分は愛される存在なのか」という認識を固めるともしています。
この数年間で、親(ないし養育者や周囲の人間)とのかかわりの中から学び、思考のパターンを決めてしまうのです。

ポジティブな「内なる子ども」とネガティブな「内なる子ども」、双方のバランスが取れている状態が好ましいです。
しかし何かしらの影響を受けて、ネガティブが強く出すぎる、もしくはポジティブが表に出にくい状態になると、生きづらさに繋がってしまいます。

・ネガティブな内なる子どもの過剰反応

一例として、両親から褒められる経験を十分に受けられなかった子がいるとします。
絵を描いた、自転車に乗れるようになった、などなど頑張りを十分に認めてもらえなかったようなケースです。
するとネガティブな内なる子どもは「自分は褒めてもらえないんだ」「もっと頑張らないと」という信念をもとに構築されていきます。

このような人が大人になったとして、その信念は引きずっています。
様々なパターンが考えられますが、
・承認欲求を満たすべく危険な行為に走る
・性的な交流を盛んに持とうとする
・完璧主義的な思考に陥り無理をするor何もできなくなる
などでしょう。

これらは内なる子どもが、幼少期に満たされなかった欲求を得ようとして、もしくは辛かった経験から逃避しようとして、衝動的に働きかけていることが原因のひとつです。

・具体例

本書では具体例として、ソーセージの買い物を恋人に頼んだカップルの話が掲載されています。

要約すると。
・男が女にソーセージを買ってくるよう頼んだ
・女は買い物を忘れてしまい、男が烈火のごとく激怒
・男の中では「自分の願望を聞き入れてもらえなかった」と内なる子どもが反応している状態→彼の母親が彼の願望を十分に叶えてくれなかった
・女の中では批判されたことを「おまえは価値がない」と内なる子どもが解釈→彼女が”両親を満足させられなかった”という記憶

内なる子どもが反応を起こすのは、実に1/1000秒という短時間
普段なら理性でコントロールできるはずなのに、内なる子どもはより強烈に素早く感情を捕まえ、思考も感情も操ってしまうのです。
例に出したカップルは、内なる子ども同士がケンカに至ったのです。

パーソナリティ傾向とパーソナリティ障害

ここで注意したいのは、誰しもがポジティブ・ネガティブ両方の内なる子どもを持つという点です。
再度になりますが、問題はバランスです。
この時、長期にわたって(良し悪しは問わず)安定している思考、知覚、反応などを「パーソナリティ傾向」と呼びます。

パーソナリティ傾向が、日常に支障をきたすほど顕著な状態であると、「パーソナリティ障害」という診断を下されることがあります。
ここでは後の章のためにご紹介します。

パーソナリティ障害の定義は次のようなものです。

その人の属する文化から期待されるものより著しく偏った、内的体験および行動の持続的様式。

参考文献[3]
より引用

パーソナリティ障害(人格障害とも呼ばれます)とは、本人に重大な苦痛をもたらすか、日常生活に支障をきたしている思考、知覚、反応、対人関係のパターンが長期的かつ全般的にみられる人に対して用いられる用語です。

参考文献[4]
パーソナリティ障害の概要 より引用

パーソナリティ障害は10に分類できるのですが、それぞれを説明していると記事が1本かけてしまうので割愛します。
詳細を知りたい方は参考文献の章からリンクをご覧ください。

「パーソナリティ傾向」は誰しもが持つものです。
「個性」とでも言い換えられるでしょうか。
それが障害とされるか否かは、程度問題にすぎません。
次の章で深掘って見てみましょう。

人は何かしら生きづらさを抱えているし、認知が歪んでる

先ほど「誰しもがポジティブ・ネガティブ両方の内なる子どもを持つ」と述べました。
その行き過ぎた例がパーソナリティ障害として現れます。
しかし程度はグラデーションであり、人によっては複数のパーソナリティ障害の傾向を持つ場合もあります。

つまり、誰しも何かしらの生きづらさを抱えて生きているのです。

また「内なる子どもが反応を起こすのは、実に1/1000秒」と述べました。
この際、事実とは異なる認識をしてしまうことを「認知の歪み」と呼びます。
これはパーソナリティ傾向による思考・認知の傾向で引き起こされます。
この「認知の歪み」に、生きづらさをの根底があると考えています。

上で挙げたカップルの例で見ると、
(事実)ソーセージを買ってくるのを忘れた
→望ましい認知:忙しかったのかも、後日でいい
→歪んだ認知:自分のことを蔑ろにした、自分は大切にされてない
とできます。

これは障害とされるレベルかもしれませんが、程度の差はあれ誰しも近しい処理をしているのです。
脳科学などの分野で出てくる「クオリア」と同様、というかより顕著に、同じ事実であるにもかかわらず十人十色の認知がなされています。

あなたが認識している世界は、ありとあらゆる点で歪んでいるのです(伏線回収)。

・対策

大切なのは、自分の認知の歪みや傾向を認めて、「もしかしたら自分が思っているほど深刻な内容じゃないかも」と一度踏みとどまることです。

あなたに必ず理解してもらいたいことは、一つだけです。それは、「ネガティブな真実ではなく、あなたの親の教育ミス――たとえ一部のミスであっても――によってあなたの心に刷り込まれた、あなたの主観的な現実である」ということ。

参考文献[2]
p.109

もし、あなたの親があなたに対して違った行動をとっていたら、あるいはあなたが違う親の元に生まれていたら、あなたは今の刷り込みとは異なる刷り込みを受けていたのです。このことを、「大人の自分」を使って理解しなければなりません。
(中略)「ネガティブな信念という、あなたを非常に不快させるものは、本当はあなたとあなたの価値ではなく、”親の教育の結果”を表しているに過ぎない」と。

参考文献[2]
p.110

つまり自らの「認知の歪み」を認め、その思考が「自分のせいでなく、親によってもたらされた不可抗力」だと自覚する必要があるのです。
実際、私も「もしかしたら今の自分の認識歪んでるかも」と思うようにし、ちょっとずつ良化傾向に向かっています。

自己の表現

・美術

さて、表現の自由研究ですので表現について触れます。
美術においては、自画像の制作によって「自分を見つめる」という行為が存在します。
例を出すならエゴン・シーレが分かりでしょうか。

エゴン・シーレ ほおずきの実のある自画像 1912 レオポルド美術館蔵

彼はかなりのナルシストであったことが、作品等から伺えます。
大量のセルフポートレートとか見つかっているので。
彼は自身のディティールや雰囲気を描くことで、自分自身を表現し、自分という存在をより愛したのです。

その一方、結婚をするまで多くの女性との関係を持っています。
時には実の妹とも…
彼も何かしらの生きづらさを持ち合わせていたのでしょう。
自分を自分で好きなだけでは十分ではなく、他の欲求が欠乏していて、内なる子どもが悪さをしていたのかもしれません。

・写真

ここでは日本の写真家、深瀬昌久を。

深瀬の被写体としての興味は、妻・洋子、カラス、飼い猫、自分と移ろいでいます。
しかしどの被写体を撮っていても、「被写体を通して自分自身を撮っていた」と評されるほどの人物です。
その極致が写真集『私景』『ブクブク』という、強烈なセルフポートレート写真集。

基本的に写真は、撮影者が写らないものです。
写っているのが被写体そのものであるはずなのに、どこか深瀬自身の影を感じる。
興味や物の捉え方、切り取り方など、目には見えていなくとも「カメラを構えている人間」という存在は知覚できる。
そこに写真ならではの表現や、写真の限界突破の鍵があるのかもしれません。

・自分を見つめることは表現の出発点

ありとあらゆる表現は、外界からの刺激に対して、生じた内的な反応をアウトプットするものです。
SFや異世界転生モノなどであっても、まったくリアルの世界を反映しないということは無いでしょう。

それを念頭に置くと、刺激に反応している自分、アウトプットしようとしている自分を、注意深く観察することが重要になってきます。
思考の過程はどのようになっていて、何に敏感に反応し、どのような気持ちになったのか。
その中から何を伝えたいと思ったのか。
自分を見つめることは、表現の出発点
なのです。

私の話

本の引用はここまでです。
ここからは私自身の話を少し。

参考文献[3]に簡易的なチェックシートがあったのでやってみました。
インターネット上にも同様なチェックができるサイトがありますので、よければ参考にしてください。

私の傾向は、
◎妄想性
○回避性、統合失調型、境界性
です。
生きづらさのお試しパックのような混ざり具合。

振り返ってみると、特に妄想性の傾向は強く出ていたように思います。
・相手の言葉に悪意があるのではと勘繰る
・自分はそもそも嫌われていると根拠もなく思う
・お願い事をされたときに「利用されている」と拒絶することがある
などなど。

2021年に人生のターニングポイントとなるようなトラブルに遭遇しました。
自己愛性・境界性・演技性などのパーソナリティ障害に加え、その他精神疾患の疑いがあるパートナーと、死に物狂いで別れたのです。
すったもんだの末、肉体的・精神的・金銭的に大ダメージを受けながら。
「なんでこんな人生なんだ…」「もう終わらせてしまいたい…」と思っていました。
↓当時の記事

自省をしてみて、「根本原因が自分にある、変わらねばならない」と思い情報収集を始め、思考の見直しをしました。
究極的には自分を愛せていないことに起因していると分析。
私なりのポイントは「ありのままを受け入れてもらうのではなく、受け入れてもらいやすいよう表現を変えていく」。

収集した情報、そして見捨てずにいてくださった方々のお陰で、少しずつ穏やかになってきており、以前ほどの生きづらさは感じなくなりました(まだ生きづらいけども)。
辛かった状態、ちょっと良くなった状態を経験しているので、調べた情報含めて他人への理解度が多少高くなったと自覚しています。

「この人はこんな認知の傾向があるかもしれない」
「より受け入れやすい表現にするには」
「触れてほしい話題、触れてほしくない話題の線引きはどこか」

「その人が、より自身を好きになれるにはどうしたらいいのか」
そんな思考を巡らせられるのは、私のプラスポイントとしていきたいと思っています。

最終的には、写真というアウトプットによって、自分の自己愛を獲得していくことが目的。
この話は次回にしっかりと…。

おわりに

当初はさっくり書いて終わらせるつもりでいました。
しかし本を読むにつれ「これは本腰入れて取り組まないとダメだ」と思わされ、本を追加で数冊買い足しています。
結果として学びは多かったなと思います。

その一方、書かなければならない事項がとても多い。
「何を主軸にして、何を伝えるべく書くか」がとてもあやふやになってしまったという反省が大きい。
それでも読んで下さった方に、気づきや楽になるヒントが提供出来たらうれしいです。

さて、本連載も次回で最終回です。
といいつつ、おまけというか感想回を設けるつもりなのであと2本になりますかね。
本編は『表現の自由研究「写真」』をもって終了となります。

今年11月に予定しているグループ展に向け、展示の下地となる記事にする予定です。
写真のステートメント、その基礎に据える文章。
いつも以上に気合を入れて書いていきます。

それでは。

参考文献

[1] 榎本博明(2015).『〈自分らしさ〉って何だろう?』.ちくまプリマ―新書
[2] シュテファニー・シュタール著、繁田香織訳(2021) .『「本当の自分」がわかる心理学』 .大和書房
[3] 岡田尊司(2004) .『パーソナリティ障害 いかに接し、どう克服するか』 .PHP新書
[4] MSDマニュアル家庭版 パーソナリティ障害 (https://www.msdmanuals.com/ja-jp/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/10-%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%81%A5%E5%BA%B7%E5%95%8F%E9%A1%8C/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E9%9A%9C%E5%AE%B3)


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