光 ☜ 意識 ☞ 非光
意識と3次元空間(この宇宙)
はじめに
専門家の間でも、そうでなくても、「意識」の在ること自体は共有されているのだけれど、意識自体の何であるかについて(意識という言葉の指示される対象が何であるかについて)は、まったく共有されていないように思います。
意識のあることが自明であるせいか、それ自体についての検証がなされていません。
歯科(医科)でいう意識
刺激に対する反応で有無を判断する「対象」
呼びかけや軽く叩くなどの刺激(インプット)に対して応答(アウトプット)があるかどうかで「有無」がわかるということは、
肉体に於いて、感覚(インプット)と運動(アウトプット)を仲介する「何か」を意識ということになります。
アウトプットが「反射」ではなく「反応」であるというところがポイントです。
反射という身体の生理的な反応では、仲介媒体(意識)は無く、仲介する何か(意識)がある場合、運動を司る(或いはコントロールする)主体を「自我」という。そう(ここでは)定義します。
「自我」と「意識」
これが違うということは、人知(人類の経験知)から導かれます。
つまり救急蘇生で「意識」がないと客観「的」に判断されたにもかかわらず、
「夢」をみていた、とか、
「呼びかけが聞こえていたけれども、身体を動かせなかった」
という実例が、それほど希有な症例としてではなく、存在しているからです。
意識とは「場」に過ぎない
意識と、
わたしの意識、
を同じレイヤーで解釈すると、混乱します。
わたしの意識に含まれる、意志や感情や、その他諸々を主観であると、定義してしまうと、
「物質」が「主観内に在る」ということの指示される意味が理解できず、
「なら、世界は思い通りになるのか?」
と言った誤解が生じます。
物質宇宙、意識、源言語で「宇宙」
ここで指示されるのは、一般に使われる「客観」というモノを「認識(わたしの「意識」)」を省いて知ることはできない。
わたしが誰であろうとも。
というシンプルな「事実」(当たり前)に過ぎません。
認識主体が意識である。
つまり、
「主観」⊃「客観」
という「当たり前」を思い出しましょう、という話です。
主観の対義語は客観ではなく、非主観です。
それでわたしは、客観とは共有されたと思き主観である、と正確に指示した物言いをしています。
物理的定義
意識、そのものを「物理的」に観測可能でしょうか。
できない。できないのはなぜでしょう。
意識そのものが物質(非物質)かつ波動(非波動)である特性を考慮すれば、その理由もわかります。
この宇宙に存在するためには物質でありかつ(極限において)波動である必要があります。それはこの宇宙が3次元空間であることから、つまり、存在には立体であることが「義務づけられている」のです。
光
光 = 光 + 非光 + 光と非光の境界
存在の方程式により存在が指示される非光とは何でしょうか。
光は波ですから、非波と言い換えられます。
すると、3次元空間に於いてそれは、粒と言えます。(反対も、言えます)
思考実験
非光は「力」であると仮定したらいかがでしょう。
力
力 = 力 + 非力 + 力と非力の境界
力の限界域として考えられているのが「ブラックホール」です。
間違いがないのは、存在が三態(時空間・意識・言葉)であるのだから、大統一理論を求めるのであれば、その理論は、時空間と意識と言葉を「含有」しなければならないという事です。
そうして、「あおいのきせき」の知見、存在の方程式は、その条件をクリアしているのです。