科学アカデミーと利権
今の「常識(あたりまえ)」の源泉
ライプニッツとニュートン
上の二人が、17世紀の末、微積分という考え方を「思いつき」、特にイングランドのニュートンに於いて(意志・意図)を宇宙論から切り離して考えることを加えて「思いつきました」(=世界を理解する方法から目的論・意味論を排除)
「存在の方程式(あおいのきせきの知見)」から導かれた宇宙論からその事を指摘いたしますと、
「時空間」を「言葉」と「意識」を省いて「考える」ことにしたのです。
ここに、存在から主観(人の心)を切り離した「客観世界」というものが生まれます。
別の角度からこのことを申しますと、本来は思考の枠組みから「外すことはできない」無限と無を「微積分」という「やりかた」で「処理する=省く」事を「思いついた」ということです。
点描画的「錯覚(いんちき)」
点描画は実は「点」の集まりです。ですが、離れてみれば「絵」に見えます。テレビジョンもこの錯覚を利用しています。
例えとして申せば、
極限を用いて「世界(フラットではない全宇宙)を言い」表す(した)(せる)と主張することは、この点描で世界を再現できると主張するに等しい誤謬です。
このロジックを、いわば「延長解釈」をして「計算」により「世界を言い」表すこと自体に不可能性を見いだしているのが、先だってノーベル物理学賞を受賞なされたロジャー・ペンローズ博士、ということになります。
もちろん。スーラの絵は、美の極致として絶賛されるべきアートであることに疑問の余地はありません。
すべてがその延長
かなりざっくりと申し上げましたが、現在の世界はすべて上の大前提を採用しております。
そうして端的に、その大前提に乗った「科学」とそこから導かれる「科学技術」により生み出された産業で経済を回す、というのが今の世界です。
常識(あたりまえ)の限界
あおいのきせき
は、常識(あたりまえ)の限界を、打開策と共に、強く指摘した作品です。
大前提を「取り替える」
つまり、
無限と無をキチンと考える(脱微分・極限で誤魔化さない)
宇宙論に意識と言語を加味する
事を世界は希求されています。
人類知(智)が先に進めない理由の大本が、其処にあるからです。
もちろん、それは結果として、社会の構造転換をもたらします。
社会の仕組みが変わることになるからです。
仕組みが変わるとなると、仕組みを司っている方々はなかなか承知しないでしょう。
そう、利権の話になります。
宿場産業と蒸気機関車
弊社は東海道の宿場の旅籠を起源に持っております。随分と繁盛していたようでありましたが、「内燃機関」という科学技術による「蒸気機関車」を我が国が導入した結果、商いは廃業に追い込まれてしまいました。
江戸時代、我が国の宿場産業はずいぶんと大規模であったと推測いたしますが、あたらしい「科学」「科学技術」を導入した結果、ほぼ壊滅してしまいました。
ここで想像いたします。もし、明治政府の要職をすべて宿場産業の主が占めていたら、「蒸気機関車」をどうしたろうか?と。
科学アカデミー
科学アカデミーと利権
科学アカデミーと、その「働き」につきましては、原田武夫氏が様々な機会にお話しになっていらっしゃいます。下の音声レポートにも詳しくお話しがあります。世界のなりたちとしての基本知識の詰まったレポートです。
是非、お買い求めの上、お聞き下さい。必ず、目から鱗が落ちます。
例えば、「ガーター勲章」なるものと「英国アカデミー」利権についての関係がわかるだけでも、我が国の近代史の理解が格段に深まります。
是非👇
詔
詔と知見
詔(みことのり)といいますと、まるでまがまがしい言葉(宗教用語)ですが、
ニュートンの「思いつき」
は、
ニュートンが「下ろしてきた」
と言い変えることができます。
知見ははじめはすべて「思いつき=下ろす=詔」です。
詔とは「言葉」を「意識」、「時空間宇宙」へ「導く」ということです。
時空間宇宙において「無」であった「物・事」を「有」と化す作業そのものである。それはAIにはできません。
それは、勿論帰納によるものではなく、演繹によるものでもないからです。
それが、いま、あおいのきせきの知見からわかります。
以下も大変参考になります。
AIは何も思いつきません。
過去の切り貼りがせいぜいでしょう。
「乱数」は使えても「直感」は無理です。
そしてその「働き」こそヒトたる所以です。
ブールロジックに囲われたプログラムが、ヒトに追いつく事はできません。
「ブールロジックに囲われたプログラム」において働いてもらう限りにおいて有用でしょうが。