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読書記録 1冊目 村上春樹『遠い太鼓』

◆遠い太鼓

 『遠い太鼓』とは、1990年に発表された、村上春樹の紀行文であり、エッセイ。彼が1986年から1989年にかけて、ヨーロッパ、主にギリシャとイタリアを「常駐的旅行者」として妻の陽子さんと共に旅した際に、村上自身が「スケッチ」と呼ぶ短いエッセイが(非)連続的に掲載されている。
 村上はこの時期に、『ノルウェイの森』や『ダンス・ダンス・ダンス』といった長編小説、あるいは翻訳も複数手掛けているが、正直読んだことがないので、今回は割愛させていただく。これらの作品に描かれる世界観と対比させながら読むと面白いのかもしれない。

◆ニヒル

『遠い太鼓』は、以下のような文章に始まる。

「ある朝目が覚めて、ふと耳を澄ませると、何処か遠くから太鼓の音が聞こえてきたのだ。ずっと遠くの場所から、ずっと遠くの時間から、その太鼓の音は響いてきた。とても微かに。そして、その音を聞いているうちに、僕はどうしても長い旅に出たくなったのだ。」(村上 1990, p.16)

 彼が日本を出る理由、それは40歳という年齢からくる「精神的な組み換え」への焦りと、日々の慌ただしさへの無力感など、だったようだが、本人はあまり気にしていないようだった。ただ、遠くから聞こえる太鼓の音にしたがって過ごした日々。彼にとって、この3年間は「浮遊」「流動」する期間だったらしい。
 村上は、この旅の中で様々なユニークな経験をしている。牧歌的な生活を送る田舎のギリシャ人との心のふれあいや、陽気だが個人主義的でときどき(?)いい加減なイタリア人とのバトルなどが、村上の易しく、ただしかなり細やかで、そしてシニカルな表現をもって描かれている。一つ一つのストーリーは日常的で、生々しく、読者としては自分が今まさにそこにいるかのようなイメージ、異国情緒を感じる(ちなみに、私は海外に行ったことがないのだけれど。) 
 ただ、村上春樹はこの作品を通してずっと、どこかニヒルだ。それは、旅の始まりの無力感から来ているのかもしれない。実際、一時帰国や現地の新聞を読んだ際には、世界情勢や自身の作品のポピュラリティなどを、今ここにいる自分とは別の水準・世界で起こったことのように描写している。おそらく、彼自身の、異国でのどこか浮世離れしたような経験との対比がそういった感覚を抱かせるのだろう。
 それでも、旅をした時間を振り返って、

「僕には今でもときどき遠い太鼓の音が聞こえる。(中略) でも、僕はふとこういう風にも思う。今ここにいる過渡的で一時的な僕そのものが、僕の営みそのものが、要するに旅という行為なのではないか、と。
 そして僕は何処にでも行けるし、何処にも行けないのだ。」(村上 1990, p.496)

 と言ってしまうあたりが、どこか物憂げで、少し寂しい。遠い太鼓、は、いつまでも遠いまま、自らを誘惑してくる、別の世界のものなのだろうか。それとも、自分の日々の問題、あるいは広く見れば日本人、というアイデンティティによる「責任」からは逃れられない、ことへの諦めなのだろうか。少なくとも、自分は自分、負い目も、悩みも、むなしさも、全部いつだって共にある。
 この作品の中では、異国と対比した日本像、も定期的に登場する。ここもぜひ読んでみてほしい。また、イタリアやギリシャ、ドイツやイギリス人に対するステレオタイプ的な描写も豊富なので、それをネタにディスカッションしてみても楽しそう。
 この『遠い太鼓』で、村上作品を初体験したが、難しくないのに難しい(平易な表現と難解な物語、とWikipediaにもあった)に惹かれた。よく笑ったし、でもいろいろ考えさせられた。今後も小説・翻訳含めて、いろいろ掘ってみようと思う。

この作品をテーマに制作された写真集。この写真展は拝見させていただいたが、また読んでみたい。

参考文献
村上春樹(1990)『遠い太鼓』, 講談社




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