自分自身の「ペース」で前進していますか?
(写真は沖縄県久米島の自然の芸術、畳岩:2022年6月撮影)
「ペース」と聞いて何が思い浮びましたか?
まず思い浮ぶのは、「走る」イメージではないでしょうか?
「ペース」は何も「走る」ということに限りません。
私たちは時間軸の中に生きています。ある意味において私たちの人生全てに「ペース=進む速度」があるのです。
地球の自転を使って時間・分・秒が単位として使われています。全ての人がこの単位で一日24時間を等しく与えられている訳です。
この時間の中で私たちは生きています。
物事を進める、考えを進める、関係を進める。
いつか分かりませんが、私たちはこの世から去らなければなりません。ですから限られた時間の中で前進するしかないのです。
そうなってくると「ペース(前進する速度)」を考える必要があるでしょう。
「ペース」を考えると「終わり」を考えることになる
一日はもちろんですが、一生という限られた時間の中で、どこまで前進するのか?
余命を告げられた人はいるでしょうが、それでも、いつこの世での自分の時間が終わりになるかわかりません。
肉体的には老化現象があります。
私は50歳の誕生日に父親から、これからは今までと同じように「走る」ことはできないから、健康には注意しなさいと諭されました。
それでもその時は何を言われているか分かりませんでした。自分は健康に気を使って運動したり健康な食生活を心がけていたからです。
ところがその一ヶ月半後に難病を発症し、9回の入退院をくり返すことになりました。幸い寛解したのですが、少しだけ「ペース」について考えることができるようになりました。
「ペース」を考えるとゴール(最終到着点)はどこに考えるのかに自然に思いが向かいます。
近所の自家焙煎喫茶店のマスターは、お弟子さんをつくっては全国に輩出していましたが、ある時にこれ以上はお弟子さんを輩出できないからといって店を閉める決意をして、最後のお弟子さんが独り立ちた一年後に閉店しました。
ご自身の弟子を育てるという「ペース」から「終わり」を考えてのことでした。
「終わり」といっても「人生の終わり」だけではありませんから、プロジェクトでもタスクでも「終わり」を考えることができます。
「終わり」を「成し遂げること」とか「成果」と考えてもいいかもしれません。
ガンジーは「学び」については「終わり」がないのだと考えました。
「終わり」がないと考えることも、「終わり」を考えることです。
「ペース」について考え、「終わり」を考えてみませんか。
「終わり」を考えると「優先順位」を考えることになる
マハトマ・ガンジーを引用しましたが、お気づきになったと思いますが、引用したのは、発言の後半部だけでした。
前半部の「明日死ぬと思って生きなさい」は、「優先順位」についてですね。
明日までの命となると誰でも「優先順位」を考えるでしょう。
私の難病は明日にでも命がなくなるようなものではありませんでした。
しかし、闘病中は仕事はおろか、日常生活まで支障がでてしまい、一日に一つの事しかできないという日々が続きました。
そうなると全ての「ペース」は、牛歩というか「カタツムリ歩」になってしまいます。
一日に前進できる速度が非常に遅く(速度とは呼べないほどに)なりました。
その中でできる事に限りがあります。同じ24時間ですが、横たわってぼーっとしている時間が長いのです。
その中で、今日何をするかをよく考えないとなりませんでした。
タスクのサイズや重要度を考えざるを得ません。
今の自身の「ペース」を観察して「優先順位」を考えてみましょう。
「ペース」は保つもの、同じ速度である必要は全くない
「ペース」を保つというと「一定」でなければならないと思っていませんか?
そんなことはありませんよね。
マラソンのような長距離走を考えてみましょう。平坦なコースだけではないでしょう。コースの状況に合わせた「ペース」で走る必要があるでしょう。
マラソンで走り始めてから最後まで一定のスピードで走り続けるランナーはいないでしょう。
私の友人で「Run/Walkメソッド」という方法でマラソンを初挑戦で完走した人がいました。
その人は、4分間走り1分間歩くという方法でほとんど準備なく、ぶっつけ本番でマラソンを走りきったのでした。
「人生は太く短く」全力で走り続けなければならないと思って生きていた私に、このマラソン走法は「目からウロコ」でした。
1分間歩く中で前進しつつも回復するわけです。ペースの中に回復するための休みを入れるのです。
メリハリのある「ペース」。状況に即した「ペース」。
成し遂げることを考え、優先順位を選び取り、「ペース」を定期的に見直しながら、「ペース」を保つのです。
周囲の「同調圧力」に慌てないで下さい。