自分の「学び」に、違う角度から光をあててみよう
(写真はパリにあるロダンの「考える人」:2022年12月撮影)
最初から余談です。
投稿内容とほぼ関係していないiPhoneで自分が撮影した写真を「見出し画像」に使っているのですが、何でもかんでも自分でやろうとしているからかなぁなんて、ふと思ってしまいました。
そもそも「見出し画像」について何も学んだりしないままここまできました。
そこで、もう少し学んだ上で意識的に取り組みたいと「雑念」??でした。
「見出し画像」についてなら言いたいことがある!というクリエーターさん、ぜひコメント欄にお願いします!
さて、本題です。
「学び」はビジネスにとって、いや私たちの人生にとって欠くことのできない「活動」です。
「活動」と言うより、もう「生き方」なんて言った方がしっくりくるかもしれません。
意識、無意識に関わらず、生きている間、私たちは何かを学んでいるといって良いでしょう。
学校の教育現場に関わることが多くなったので、子どもたちの「学び」を観察する機会が増えました。
そこで観察した興味深い事象をご紹介して「学び」について、少し違った視点からご一緒に考えてみたいと願います。
めあて:「えいごで1〜5までかぞえてみよう」
あれ?いきなり平仮名でどうしたの?
はい、実はこれ、小学校1年生の外国語活動のある授業一コマでの板書です。
最近は様々な特例を用いて小学校1〜2年生から、外国語(英語)の学習に取り組んでいる学校があります。
最近の学校では授業のはじまりに学習の「めあて」を児童と一緒に確認するんですね。(私が児童だったときにはこんなことはしていなかったかなと思います)
英語で数を数える授業を観察すると面白い光景を目にしました。
ある子どもたちは直ぐに「できるよ!」と言って「ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ!」(すみません、子どもたちの発音が必ずしもカタカナの発音ではないのですが)と言い始めます。
黒板に大きな数字のカードを1〜5まで貼り付けて、クラスで一緒に読み上げます。
「なんだ、みんなもう授業で扱わなくてもできるじゃないの」
そう思っていると、いやいや面白い事が起こります。
1〜5の数字カードをバラバラにして、順不同で数字を指して子どもたちに英語でその数字を読ませると、、、、
途端に言えなくなってしまうのです。
何が起こっているのでしょう。
ツッコミどころが多すぎますね!そのいくつかを考えてみましょう。
習熟するということ
すらすらと1〜5までを英語で数えることができた児童が、突然一つ一つの数字を英語で言う事ができなくなってしまうのか?
いくつかのことが思いつきます。
1〜5までの英語を連続する「音」として暗記しているため、一つ一つの言葉と数字を合わせることができない
順序が1から5という順に並んでいれば、1〜5の数字をバラバラにでも英語で言うことができる
「さん(3)」は英語でなんて言うの、と言うように「3」という文字を日本語で聞かれると「スリー」と「翻訳」できるが、「3」という文字を視覚で見て即興で「スリー」と結びつけることができない
他にもあると思いますが、九九を暗記するプロセスを思い出して頂くと分かりやすいかもしれません。1の段、2の段と順番に覚えていきますよね。
6の段で6X8=48(ロクハシジュウハチ)と覚えた後に、8の段に行って8x6で分からなくなってしまう事があります。
かけ算ですから6と8の順序を変えても答えは一緒、48です。
でも、お題目のようにして暗記するので8x6=48(ハチロクシジュウハチ)が出てこないのですね。
自分で言えば言えるが、他人に途中まで言われて答えの部分だけ言おうとするとつっかえてしまう。
口ではスラスラ出て来るが、かけ算を見ただけで答えが出ずに、頭の中で九九を言わないと(つぶやいたりしないと)答えがでない。
文章問題で「リンゴが6個づつ入った箱が8つあります。リンゴはぜんぶでいくつありますか?」となった瞬間に九九では、瞬間で答えをだせるのにちょっと考えてしまう。
そんな体験をしたのではないでしょうか?
くり返し学びながら、最終的には様々な方法でも、英語で言えるようになったり、計算ができるようになっていくのです。
これを教育の現場では「定着」すると言いますが、一般的には「習熟」するとか「マスター」するなどと言いますね。
「学び」は奥が深く、ここまで完全にマスターしたとは言い切ることができません。「終わり」がないとも言えるでしょう。
そして「習熟」に向かうの道のりも、いくつかのパターンもあるのでしょうが、やはり、個々人で異なるように思います。
自分の「学び」を見つめてみよう
子どもたちの「学び」から、気づいたことを考えてみました。
それではここから何を「学び」とる事ができるでしょう?
私たちのビジネスもある意味「学び」です。
社会や個人の問題を解決したり、望む未来のために向うことができるようにしたりする商品やサービスを「つくり」「売って」その営みを「管理」する。
このプロセスの中にも様々な「学び」があります。
特に時代が大きく変化している現在の状況では、「学び」の重要度は変わらないどころか、増すばかりです。
「学び」と聞くと私たちは直ぐに「新しい」何かを学ぶことに思いが行きがちです。
しかし、小学校で観察した児童の「学び」から気づかされるのは、「できる」「分かっている」と思っていることについて更に学びを深めることも大切だということ、いや、むしろそのような「学び」こそが必要な「学び」なのではないか、と言うことです。
当り前のようにしている仕事一つを取ってみても、
順序を変えて考えてみる
バラバラにして考える
もっと早く完了させる
もっと成果の質を高める
他の人に教える
などなど
自分がそれをそつなくこなすという視点から離れて考えてみることで、「学び」への扉が大きく開くのです。
最後までお付き合いありがとうございます。