規律と自律:小塩節「ドイツ語とドイツ人気質」
以前から、日本人は「車が来なくても赤信号を渡らない」、すなわち社会や集団の規則には盲目的に従順だが、個人でものごとを判断して自分の責任で行動することができない、だからサッカーでもストライカーが生まれず勝てないのだ、と言われたりした。元日本代表監督のフィリップトルシエがその著書でも指摘し、いろいろな文脈でこれが引用されている。
しかし、私は、それは違うよ、と思うのである。十数年前に出張先のミュンヘンで、赤信号を渡ろうとして、知らないおじさんに怒られたり、誰も歩いていない歩道の自転車走行レーンで、それと気がつかず歩いていたら、やっぱり知らないおじさんに怒られたことがある。そんな経験のある私にしてみると、ドイツ人は日本人よりも規律に厳格だと思う。もちろんドイツはサッカーの強豪だ。
やはり規律やしつけ、という点でドイツのレベルは異次元のレベルで高いという印象を強くもっていた。そして父母、祖父母が責任を持って子供をしつける、しかも、言葉でちゃんとわからせる、というのがドイツ流だと思う。そこで、この間、ドイツ人の元同僚にして素晴らしい友人の二人にちょっと尋ねてみた。すると二人とも口をそろえて言うには「最近はそうでもない。」
Regarding following the rules. It has changed. Many people cross the treat at red light, drive with their bicycle in the wrong direction in a one way street, drive too fast where is a speed limit, etc. And less people say something if it happen.
Compared with *.*.*. it is still better. I got the impression in *.*.*. the street rules are only recommendation.
Parents and grandparents still show more responsibility and educate heir children. I have also the impression that people hesitate to cross the street at red light when children waiting as well.
訳はこんな感じだろうか。
規則に従うという点に関しては、変わってしまった。多くの人が赤信号で道を渡り、一方通行の道で逆方向に自転車を走らせる、速度制限のある道でスピードを出して車を走らせる、などなど。そして、それに物申す人も少なくなった。
それでも、※国と比較したらましだと思う。※国においては、道路の規則は、規則ではなく単なるおススメなんだろうと感じた。
両親、祖父母は、まだ、自分たちの子供の教育にもっと責任を持っている。子供が一緒に信号待ちしているときに、ほんとんどの人は赤信号で道路を渡るのはためらうと思う。
注: *.*.*. (訳文では ※国 ) は、もともと具体的な国の名前が入ってましたが、いちおう伏せといた。
子供が一緒に信号待ちしているときには、赤信号で渡る人はいないだろう、というのは、けっこう、日本人の感覚に近いのではないだろうか。
ところで、通信とAIとバイテクノロジーにより大きく変わっていく世の中に生きている私たちにとって、人間とは何か、意識、知能、概念、理性、道徳、芸術、宗教、社会、政治、などなど、について深く考え、実践に結び付けていくことがますます重要になっていると思われる。カント、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデガー、ヴィトゲンシュタインと、古の巨人たちの知に触れたいと思えばこそ、ドイツ語をものにしたいと一時期思いたったものの、残念なことに、結局続かずにいる。
ドイツは何度も出張で訪れたし、その関係でドイツ人の友人も何人かいるし、今の職場においてもドイツの同僚との仕事上のからみもずっとある。そんなこんなで、とても近しい気がしていて、ドイツには、これからも何べんでも訪れたい。いずれドイツ語の勉強を再開し、できれば、数年でもいいから暮らしてみたい。そんなふうに思ったりする。
さて、この本が書かれたのは、約30年前、東西ドイツの統一前である。当時、NHKドイツ語講座をされてたという小塩節氏がドイツ語の特徴だけでなく、ドイツ人と日本人の違いや、ドイツ文学の魅力を、存分に語っており、読んで楽しい本である。何より、氏が楽しんで書いたことであろう。
そして、なにより、「ドイツ語は詩と哲学の言葉である」という氏のドイツ語に対する愛があふれている。
今、カントの「純粋理性批判」の中巻を読んでいる。大事な哲学用語について、この本に書かれていることを自分のメモのためにちょっと引用しておく。
Begriff「概念」
手でつかんでわかること、意味内容をしかと手でつかむように会得すること、これがベグリッフの意味で、動詞ベグライフェンからできた。
Verstand「悟性」
どれは動詞 verstehenからできたことばで、「わかること、理解、知力、分別」を意味する。理解能力を指す。
Vernunft「理性」
「知覚する、聞いて分かる」、総合能力を意味する。
Wesen「本質」
ドイツ人は「本質」について論じ合うことが好きだ。(略)もとをただせば sein (英語の be )と同じ「存在する」という wesen動詞である。(略)在ること、在りよう、存在していること、といった意味なのだ。
また、他に地味に面白かったところが、
目の前の小さな出来事ひとつを語るにも、過去の歴史的原因と現在の諸条件との関連をことごとく言い尽くし、全体を流れる論旨の一貫性と、主要論旨と部分部分の論述の整合性を論じてやまない。だからドイツ人の学者や技術者が「入門書」を書くとなると千ページくらいの「ハンドブック」を三冊くらい書かないと気がすまない。ドイツ人がハンドブックと言ったら、両手でやっと持ちげられるくらいの重さということになる。
確かに、米欧の専門書、ハンドブック、というと一般的にそんな感じで、700ページくらいはざらである。そうはいっても、1000ページ × 3冊というと、あまりお目にかからないように思う。
私たちは、単語の表面をさらっと流すだけでわかったつもりになっていないだろうか。また、細かいことを気にせずに文章の大意をつかむことだけで、本質を見たつもりになっていないだろうか。専門書や原著にあたらず、口当たりのいい解説本を読むだけでわかった気になっているのではないだろうか。しっかりと噛み砕いて時間をかけて消化して理解する努力を払わず、いや、むしろコツコツとはらう努力や地道な勉強をかっこ悪いこととし、なるべく労力を使わず無駄を省いて何かを身につけることがスマートであると勘違いしてはいないだろうか。
ちょっと古いけれどもとてもお勧めの本、いろんな人に読んでもらいたいと思った。