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無限に続く無限の系列:Richard L. Tieszen, "Simply Gödel (Great Lives Book 8)"

予定より少し時間かかったけれど、2月末に今年2冊目の洋書、ゲーデルの伝記、読み終えた。


伝記というよりゲーデルの比類ない業績についてのわかりやすい入門書だ。

著者 (1951-2017)はサンノゼ大学の教授で他に何冊もの著書があるこの道の専門家だ。不完全性定理について、その背景やロジック、そして意義について詳しく解説し、さらには連続体仮説や一般相対性理論のゲーデル解について、そして、プラトン、ライプニッツ、カント、フッサールの影響を受けた哲学・思想など、ゲーデルの人生に沿いながらエピソードを交えて説いていく。

形式体系 (formalism)、完全性(completeness)と決定可能性(decidability)の違い、述語論理の解説など、専門的な内容に踏み込んでいて、しかも一般読者にもわかった気が持てるように書かれている。完全性定理、ヒルベルトの形式主義を含む背景、不完全性定理の証明、そして不完全性定理がもたらす帰結、と、順番に丁寧に説明しているのがよい。

最後の章のまとめが簡潔で秀逸だと思った。

去年、高橋昌一郎著の「ゲーデルの哲学」を読んでいたこともあって読みやすかった。洋書を読むのが趣味で数学と哲学あるいは論理学に興味がある人にはおススメだ。

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さて、大学のころだったか、無限は無限でも自然数や有理数の無限と、実数の無限は違うのだ、ということを本で読んで、30年の会社生活のなか、雑談のなかで同僚を煙にまくときにたびたび、「アレフ数って知ってる?」と話題をふったりしたので、実際にはカントールの集合論などちゃんと勉強していないのに、よく覚えている。

いちおう、私が理解しているところを、自分のためもあるので、以下、まとめておこう。最後の段落まで飛ばして読んでいただいてもOKだ。

自然数は 1, 2, 3, .... と無限に続く。整数は、これに 0 と負の数字を加える。整数の集合を 0, 1, -1, 2, -2, 3, -3 , ....と順番に並べると、1, 2, 3 ... と 1 対 1 対応づけが順番にできるので、自然数の集合と整数の集合は同じサイズであることがわかり、これをアレフ0 という。

アレフはヘブライ文字の "A"にあたる最初の文字で、ℵとかく。ヘブライ文字は、イスラエルの歌姫オフラ・ハザの音楽をよく聴いていて、少しは親しみがあったので、覚えやすかったこともある。

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偶数も奇数も同様に 1対1対応ができるので、自然数や整数と同じℵ0とわかる。

でも、偶数は整数の部分集合だし半分の数しかないんでないの?と思うかもしれないが、そこが無限の不思議なところだ。上の議論によれば、無限集合の部分集合である無限集合は等しいサイズとなるわけだ。

有理数は、p/q (pもqも整数)で表せる数だ。これは、横軸にp の列、縦軸にq の列を作って2次元に配置したうえで、順番に 1, 2, 3, ...と対応付けていくことができるので 同じℵ0となる。なお、有理数は循環小数も含むので、無限小数かどうかは問題ではない。

さて、無理数を含む実数は同じように並べることはできない。実数のサイズをℵとする。ℵ > ℵ0 であることは感じられるだろう。有理数は無限にあるとはいえ、実数全体の集合から無限にある無理数が抜けてしまったスカスカの、そんな無限になっていることがわかる(*1)。

実数の小数展開の数字列を、自然数と0の組み合わせと考える。すると、この数字列の集合は、自然数を要素とする集合の、べき集合と考えることができる。(べき集合とは、ある集合の部分集合を要素とする集合に空集合を食和えた集合である。たとえば 集合 A が {a, b, c }ならばべき集合 2^Aは{φ, {a}, {b}, {c}, {a,b}, {a,c}, {a,b,c}}となる。)

つまり、ℵ = ℵ1 = 2^ℵ0 となるだろうことが理解できる。

※すみません、このへんは「私の理解」で、スーパーラフで誤りを含んでいるはず。ℵ = ℵ1であることがイメージしやすいので、このように考えている。実際にはℵ = ℵ2だという議論もあるし、流しておいてほしい。

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また、上の「偶数は整数の部分集合であるのに、サイズが同じ(同型)」ということと同じことは、実数なら例えば、「区間 0 < x <1 の開区間 x と実数全体の集合 R はサイズが同じ(同型)となる」、ということが言える。つまり無限集合において、全体が等しいと見なせる部分を含む、ということだ。

ラフに言い換えると、自分自身と等しい部分を無限に含むそんな自分を無限とみなすことができる、ということだ。

ロマンを感じるところとしては、さらに高い次元の無限を無限に考えることができることだ。つまり、べき集合のべき集合ℵ2、さらにそのべき集合ℵ3 ...... と無限に作っていくことができる。

超ラフに言い換えると、自分が無限であっても自分に理解のできない一段上のレベルの無限が必ずある、そして、さらにその一段上、さらに上、と無限に上のレベルの無限が存在しうるということだ。

さて、連続体仮説とは、ℵとℵ0の間に無限濃度がない(つまり、自然数と実数の中間がない)という仮説で、証明ができていない。

ゲーデルは「ZFC( ツェルメロ-フレンケルの公理系 に選択公理を加えた)から連続体仮説を否定できない」ということを証明したが、連続体仮説そのものは偽であると考えていたということである。

連続体仮説を提唱したカントール本人も、そしてゲーデルも、後にこの仮説を偽と考え、それを証明しようとしたが二人ともできなかった。ゲーデルは晩年、ℵはℵ2である、という論文を提出したが証明に不備があると認め、撤回したという。これはゲーデルが発表しようと投稿した最後の論文だったということである。高橋昌一郎の「ゲーデルの哲学」以上に簡潔にこのあたりの経緯をまとめることはできないので、少し長くなるが引用する。

これを受け取った編集委員長タルスキーは、レフリーの数学者ロバート・ソロベイに、執筆者の氏名を伏せて論文査読を依頼した。ソロベイの査読結果によると、四つの新たな公理のうち、一つは「承服し難い」ものであり、二つは「非常に問題がある」ものだった。これでは、公理系そのものが受け入れないことになる。ソロベイは次のように述べている。「私は、もしこの論文の著者がゲーデルでなければ、即座に却下すべきだと、タルスキーに解答した」その結果、タルスキーは丁寧な手紙を添えて、ゲーデルに論文を返却した。
高橋昌一郎著「ゲーデルの哲学」p.191

このころすでにゲーデルは心身ともに病んでいたという。タルスキーへの丁寧で真摯な返事は下書きのまま出させることはなく、そして1978年初頭に他界する。

カントールは1874年29歳のときに無限集合論を発表したけれども、当時の数学界からすぐに受け入れられたわけではなかった。恩師のクロネッカーさえ理解しようとしなかったという。そのためか、39歳のころから精神に異常をきたし、1918年73歳で他界するまで精神病院で過ごすことになったそうである。

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カントール、チューリング、モルゲンシュタイン、フォン・ノイマン、と興味は尽きない。コンピュータ科学、A.I. を語ろうと思うなら、このあたりはおさえておくべきであろう。

無限を考え永遠を願いつつ、有限な時間と空間のうちに生きる私達。私達はどこから来てどこに行くのだろうか。



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■注記

(*1) 自然数や整数は、ある範囲に有限個しかない。たとえば0より大きく2より小さい整数は1しかない。だから飛び飛びで隙間があって、自然数や整数が無限にあるとはいえ連続ではない、ということは直観的にもよくわかる。

任意の有理数を選びそれと異なる任意の有理数の間に必ず有理数が存在する。つまり、たとえば0より大きく1より小さい、と範囲を区切っても、その中に有理数は無限にある。しかし、自然数と1対1の対応がつく以上、自然数と同じように有理数は連続ではないのだ。


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