ジェイラボワークショップ第82回『歳時記を読む。言葉を読む。』【俳句部】[20250106-0119]
本記事は、ジェイラボ内で2025年1月6日から1月19日にかけて行なわれた、俳句部主催の第82回ジェイラボワークショップ『歳時記を読む。言葉を読む。』のログです。
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1日目
★あんまん
こんばんは。 これから2週間俳句部のワークショップをします。よろしくお願いします。今回は歳時記を読みます。歳時記とはなんぞやという方のために説明すると、歳時記とは、季節ごとの行事や、風物詩、自然の言葉などの、季語がカテゴリーごとに記載されている書物です。現在俳句部では、歳時記を用いて俳句を作っています。歳時記を読むなかで、言葉と生活の関わりについて考えることがあったのでこのワークショップで皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
スケジュール
day 1-4歳時記をよもう!
day 5-10 俳句的言語観について考える
day 11-14部員ごとの俳句を一年ほどやってみて感じたこと
座談会は、1月12日21時開始を予定しています。これまでの活動で作った俳句をもう一度鑑賞して振り返ります。 それでは、これから2週間あらためてお願いします。
★イヤープラグさざなみ
初日は冬の「生活」から5つピックアップして紹介します。歳時記には季語そのものだけでなく、その意味やその語句が使われている俳句も載っています。こんな感じです。↓コメントは私が付け足しました。
日記買う(110ページ) 語句の意味: 年末に来年の日記を買うこと。
俳句: 良いことの起こるを願ひ日記買ふ (俳句庵 2012年12月)
コメント: iPadを使うようになってからは日記は全てGoodnotesに書いています。ほとんど毎日書いています。貯まった日記を読み返すのが楽しいです。紙に書くことはめっきり減りました。僕の中で日記と新年の結びつきは弱くなっていますが、2025年版のスケジュール帳の無料テンプレートをダウンロードするなどはしました。以前は伊東屋に行って手帳選びをするのが年末の楽しみイベントでした。
賀状書く(110ページ) 語句の意味: 新年に届くように、年内に賀状を用意すること。「賀状」は新年の季語、「賀状書く」は冬の季語。
俳句:賀状書くけふもあしたも逢う人に (藤沢樹村)
コメント: 歳時記には春夏秋冬と新年の5つがあります。中高の頃は友達と送り合いっこしてましたが、いつの間にかしなくなっていました。ここ数年は自分から送ることはまずなくて、親戚から届いた年賀状に年が明けてから返事しています。
鯛焼(85ページ) 語句の意味: 生地を鯛の焼型に流し込み、餡を入れて焼いた菓子。
俳句: 鯛焼は鯛焼同士ぬくめあふ (大牧 広)
コメント: なんだかんだで粒あんの鯛焼が一番好きです。生地もクロワッサン系とかではなく、普通のやつです。
手袋(79ページ) 語句の意味: 防寒・保湿のために手指を覆うもの。
俳句:手をつながむと手袋を脱ぎにけり (荒井千佐代)
コメント: 赤い手袋を使っています。スマホ対応なので本当は脱ぐ必要はないのですが、僕が使っているiPhoneが古くて指紋認証しないと開かないので、登録している指を一本だけ出すことがあります。手が乾燥しているときは、ハンドクリームを塗った手を手袋に突っ込んでそのまま寝ています。効きます。
冬休(68ページ) 語句の意味: 正月をはさんだ二週間ほどの学校の休み。
俳句: 叱られてばかりゐる子や冬休 (青野 卯)
コメント: ちょうど今朝、実家のある千葉から神戸に帰ってきました。羽田から神戸空港までスカイマークです。安く済ませるために早朝の便を予約したせいで、朝5時起きでした。外はまだ暗い、まだ眠い。でも駅に着くと人が多くてびっくり。電車、座れなかったです。小中高の冬休みは宿題がありましたが、大学生にそんなものはありません。好き放題過ごせます。といっても今年は卒論を終わらせないといけないので気が休まりませんでした。高校の時の友人と再会したりもしました。会うのは何年振りかなのに、すぐにあの頃に戻れる感じがとても居心地よかったです。
2日目
★匿名希望
みなさんこんにちは(こんばんは), Day2は匿名の方から,季語についてご紹介させていただきます! 私からご紹介させていただきます季語は,「天文」です. 天文,天体観測とか宇宙のことかな?と思われたでしょうか. 俳句の季語での「天文」とは,天(体)に関する文(字)ということですが, 主に,気象のことを思い浮かべて頂けますと,馴染が湧いてくるのではないかと思います! そこで,今回は,WeatherNews Live (24時間永遠とひたすら天気予報を放送している番組/YouTubeチャンネルです) とかで沢山出くわしそうな単語がたくさん登場するかもしれません?が, 爽やかさが類推されるような,気象が関連した俳句の季語について,少しでも興味を持って頂けましたら幸いです.
空風 (からかぜ)
意味 : 冬に北または北西から吹く、乾燥した強い季節風。◆太平洋側、なかでも関東地方に多く、上州名物とされる。
俳句 : 目に入れて太陽痛し空つ風
コメント : 目に入れたら太陽が痛い,というのが意味が良く分かりませんでした.乾燥した風(=空つ風)が目に染みるのは,なんとなく共感できました.
冬の雷 (ふゆのらい)
意味 : 寒冷前線の発達によって積乱雲が発達し、冬でも雷が鳴ることがある。これは夏の場合,単に雷と表現される.
俳句 : 寒雷のふたたびを待つ背を正し
コメント : 雷って,夏のイメージがありますよね?私も今回季語を調べている中で初めて知り,実感もしたのですが, 冬って,ほとんど雷が落ちないんですね.そんな中,突然雷が落ちたら,えっ,次また落ちるのかな?なんて思ってソワソワする感じがします.背を正し,という表現が非常に確かにそうだな,と思いました.
冬の月 (ふゆのつき)
意味 : 冴えわたった大気の中で冬の月は磨ぎ澄まされたように輝く。
俳句 : 戸口まで道が来ており冬の月/寒月や猫の夜会の港町
コメント : 冬のキンキンに冷えた?中,月の光がよりいっそう辺りを照らしており,戸口まで照らされるくらい,月が綺麗に光っている,という情景が浮かんでくる素敵な俳句例だな,と思いました.
霜 (しも) [別表現 : 霜の花 霜の声 青女 大霜 深霜 強霜 朝霜 夜霜 霜晴 霜雫 霜解]
意味 : 空気中の水蒸気がそのまま凍り、屋外の建造物や地表などに付着する氷晶。気温が低くよく晴れた夜に多い。夜が明けると一面に白く輝き、日が高くなるにつれ、溶けて雫となる。霜の花は降りた霜の美しさを花にたとえたもの。霜の声は心耳でとらえた霜夜の気配。青女は、霜・雪を降らすという女神で、転じて霜の異称となった。 夜すがらや竹凍らするけさの霜 俳句 : 霜晴や汽車はレールにみちびかれ
コメント : 霜で見えない中,鉄道の特徴である,自動車とは異なり,レールという,左右方向に移動拘束が課せられた状態で有るが故に,深い霧が立ち込んでいる中でも,その中に吸い込まれていくかのように導かれていく状況が浮かんでくる俳句だな,と感じました.
霰 (あられ) [別表現 : 玉霰 夕霰 初霰]
意味 : 雪の結晶に水滴が付いて凍り、白い不透明の氷の塊になって地上に降るもの。玉霰は霰の美称。◆『金槐和歌集』の〈もののふの矢なみつくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原 源実朝〉の「たばしる」に見られるように、霰には勢いの良い動的な印象がある。
俳句 : 水の面を打つて消えたる霰かな 綾部
コメント : あられが鉛直上方から落下してきて,水面にぶつかり,水の温度のほうが高かったせいか, 水に溶けゆくシーンが浮かばれる,なんか,そのシーンの美しさを感じれる,そんな俳句だな,と感じました. ただ,なぜ,綾部,という地名が入っているんだ,関係なくない?とも思いましたが,綾部が京都府北部にあり,あられが見れるほど寒いということなのかな?とも思いました. 感想等ございましたら,どしどしお待ちしております!
3日目
★あんまん
私は冬の動植物の季語を紹介します。歳時記は河出書房新社の平井照敏著の新歳時記冬を参照しました。
寒雀(かんすずめ)冬雀
冬は食物が探しにくいので、雀は人家に近づき、ごみをあさったりする。雪の時など寒い時には、身を膨らますようにして、屋根や木の枝にとまっている。戦後、小鳥の捕獲が禁止されたので、雀が唯一の捕獲して良い小鳥となったが、寒雀は、晩秋に食い溜めして蓄えた脂肪があり、最も味が良く、焼き鳥として賞味される。雀の血は目によく効くと言われ、目にすり込む。これは「すずめ」の「め」からのこじつけだが、寒雀が最もよく効くなどといわれる。俳句では「焼鳥として美味であるほか、寒そうに身を膨らませる雀の姿も、見慣れているだけに、親しいものである」という意味で使われることが多い。
俳句 寒雀身を細うして闘へり(前田普羅) 寒雀顔見知るまで親しみぬ(富安風生)
コメント 冬以外にも雀はいるのですが、冬になると人里に降りてきてふっくらとした雀をよく見かけます。丸々と太っていて可愛いです。モコモコしているので触ってみたいのですが、いまだに触ったことはないです。戦後は焼鳥にして食べられていたみたいですね。私にとって雀は愛玩動物でしかなかったのでびっくりです。可愛くて美味しいとか羨ましい。あんな小さい鳥をどうやって捕獲していたのだろう。
鴨(かも)青頸 真鴨 小鴨 味鴨 あぢむら 鈴鴨 葦鴨
鴨は、日本には29種類いるが、オシドリとカルガモだけが留鳥で、他は冬鳥である。内陸の川や沼に住むものと海や海岸に棲むものとがあり、前者はマガモ、コガモ、オナガガモ、ハシビロガモなど、後者にはスズガモ、クロガモ、ホシハジロなどがいる。鴨は肉が美味なので知られるが、それは前者の方で、植物性の食餌を主食としているものである。とくにマガモは別名あおくび、大型で美味、小鴨は小さいが、美味で、洋食に用いられる。銃で撃つが、ほかに張網、高縄などの捉え方がある。『万葉集』の志貴皇子のうたに、「葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ」があり、冬の寒さと望郷の思いが謳われている。『滑稽雑談』に「宗祇万葉抄に鴨は契り深きものにて、霜夜とも互に羽がひて寝るとなり」とある。寒き霜の夜の羽がい、共寝というのが、鴨のイメージであった。
俳句 鴨なくや上野は闇に横はる(正岡子規) 鴨の中の一つの鴨を見てゐたり(高浜虚子) 貰ひたる鴨をしたる雨雫(大野林火)
コメント 冬の季語であるのにまず驚きです。確かに、冬の池にはたいてい鴨がぷかぷか浮いている気がします。冬の池で鴨を見かけると寒くないのかなと思うのですが、そう思わせるからこそ冬の季語なんだと思います。相手を馬鹿にするときに「こいつはカモだ」という言い方をしますが、鴨の見た目ってなんだか、ずんぐりむっくりのすっとんきょうでそこがとても愛らしくて私は好きです。
侘助(わびすけ) 唐椿の一種で茶人に好まれた園芸品。花は一重で、あまり花の数の多くない侘しい印象の木である。四枚の花弁で、色は白、紅、赤地に白の点在などがある。咲く時期は、9月から寒の頃まで。俳句の意味としては、侘茶にふさわしい茶花として、茶人が好んだもの。花も花数も侘しく、それでこの名がある。
俳句 侘助や障子の内の話し声(高浜虚子) 侘助をもたらし活けて通ひ妻(石田波郷)
コメント 椿は春の季語ですが、冬椿は冬の季語です。冬に咲く椿の中でも特に好まれたのが侘助みたいです。冬に咲かせる花ってだけでとても好ましいですが、椿は赤色のものが多いので良く目につきます。花も花数も少なくて侘しさを感じさせるのですが、花が綺麗だからこそより一層、その寂しさとか、心細い気持ちにさせます。
ポインセチア
とうだいぐさ科の灌木。メキシコ、中米原産で、温室で育て、葉を鑑賞する。高さは、2、3メートルになる。秋の末から葉が緋色になり、花弁に似て見え美しい。葉の形は卵形でぎざぎざがある。花もあるが目立たない。クリスマスの鉢物として花屋で売られる。
俳句 ポインセチア愉しき日のみ夫婦和す(草間時彦) ポインセチアの色溢れゐる夜の花舗(宮南幸恵)
コメント 鮮やかな赤色の葉っぱが特徴の植物です。熱帯を思わせるような力強い色なので寒い冬のクリスマスを華やかにしてくれます。花がとても小さくて謙遜しているのが私は好きです。なぜ、多くの植物と同様に生殖器を華やかにせずに養分を得るための葉を綺麗に飾ってしまったのか。不思議です。
葱(ねぎ) 葱(き)人文字 根深 葉葱 葱畑
ゆり科の多年草。日本人の欠かせない冬の野菜の一つ。収穫は12月から2月ごろ。根は地下にかくれて白く、葉は筒形中空で伸び、先が尖っている。独特の香りがあるので、これを賞味する。身体があたたまる冬の食物になる。春花茎がのびて花がひらくが、これが葱坊主である。関東では根元の白いところをできるだけ長く作る。関西ではあおい部分を長く作り、九条ネギは全体が緑で葉葱という。『滑稽雑談』に「和訓義解に云、「紀」とは「きたなし」の略なり。その臭、きたなきなり。全ての葱の類を「き」といふ。胡葱、あさつき、漢葱、かりきの類なり。葱をただ「き」という。ゆゑに俗に葱を呼びて「一文字」となり。按ずるに、和俗「根深」といふ。葱の類にてこの種。その根深し。東国に産する物、青木ところ二分、白き所八分なるものあり。京畿にいまだ見ず」とある。芭蕉に「葱白く洗ひ立てたる寒さかな」、蕪村に「葱買うて枯木のなかを帰りけり」がある。
俳句 葱の香に夕日の沈む楢ばやし(飯田蛇笏) 葱真白に洗ひあげたる櫟原(柴田白葉女)
コメント 私は関西生まれなので青いネギに親しみがあります。私のネギの好きなところは、マイバックに入り切らないところです。スーパーでネギを買うと必ずネギが飛び出します。ネギが飛び出ている袋をもった人もよく見かけます。その度にこの人の味噌汁にネギが入っているのを想像したり、鍋にするのかと想像したり、ネギ越しに人の家庭を垣間見てしまいます。そんな袋から飛び出てしまうネギが私はなんだか風流に感じます。 冬は多くの動植物の活動が穏やかになりますが、歳時期を眺めてみると、冬にこそ輝き出す多くの動植物を発見できます。
5日目
★imadon2478
投稿が遅れてしまいすみません、4日目担当のimadonです。 本日は初日のさざなみさんと同じく、「生活」から6つほど季語をピックアップします。 これらをただの「語句」として捉えるのではなく、例えば皆さん自身の一日を振り返って照らし合わせてもらえると、「季節感」「風流心」を感じ取ることができるかと思います。そのために、皆さんの実体験に出来るだけ「近い」であろう季語たちを選んだつもりです。
【湯ざめ】 入浴後、温かくしていなかったがために身体が冷え、寒さを感じること。風邪の引き金にもなりやすい。
俳句↓ 亡き母に叱られさうな湯ざめかな(八木林之助) 湯ざめして顔の小さくなりにけり(雨宮きぬよ)
コメント: 「そんな格好してたら湯ざめすんで」と親に言われるのは全国共通みたいですね。その教えあってか、入浴後に寒さに震えた経験はありません。それはそうと、冬の寒い時期に温泉に行って、熱い湯に入ったあとに露天風呂で外気浴をするのはとても気持ちが良いです。その体験を思い出せば、湯ざめって本当にあるのかなという気にもなります。
【咳】咳(しはぶき) 咳く(しはぶく) 咳く(せく) 喉や気管の粘膜が刺激された時に起こる激しい呼気運動。冬は乾燥や風邪の炎症などによって、咳の出ることが多い。
俳句↓ 行く人の咳こぼしつつ遠ざかる(高浜虚子) 咳をして祝ふ咳して祝はるる(嶋田一歩) 咳の子の咳きつつ言ふや今日のこと(森下秋露)
コメント: 咳って「しはぶき」とも読むんですね。初めて知りました。冬は何かと体調を崩しやすいものです。今年はインフルが大流行りしているみたいですね。僕はといえばこの秋からずっと体調を崩してばかりで、正月から風邪を引いて寝込んでいました。特に空咳がひどく、意図しないときに続けて出ると本当にストレスが溜まります。
続けて、一気に4つ紹介します。
【外套】 オーバーコート オーバー コート 被布 東コート 防寒のために服の上に着る衣服の総称。厚手のウール生地が多い。かつてはコートというと和装用のものをさした。◆「套」は「被い」の意。東コートは明治時代に百貨店が売り出した和装用の外套。
俳句↓ 外套の釦(ボタン)あたらし熔岩(ラバ)に落ち 山口誓子 外套のポケットの深きを愛す(片山由美子)
【襟巻】マフラー 首に巻いて寒さを防ぐもの。絹・毛織物・毛皮・毛糸などで作られる。
俳句↓ マフラーの先余るとも足らぬとも(和田順子) マフラーを巻いてやる少し絞めてやる(柴田佐知子)
【重ね着】 寒さを防ぐために着物や洋服を何枚も重ねて着ること。→着ぶくれ
俳句↓ 重ね着の模様重なる襟周り(原子公平)
【着ぶくれ】 何枚も重ね着したり、分厚いものを着たりして体が膨れて見えること。 ◆重ね着同様、動作が鈍くなり、無精な印象を与える。
俳句↓ 着ぶくれて怖ろしきものなくなりぬ(原田喬) 着ぶくれて他人のやうな首がある (二川茂徳)
コメント: 僕は冬のアウターといえばGUのダウンジャケット(¥3000)一本で凌いでいるのですが、皆さんはどのような装いで冬をお過ごしでしょうか。 ・外套=コート、襟巻=マフラーは当然冬の寒い時期にしか見られないファッションですね。 僕は体型ががっしりとしていて脚が短く、コートはあまり似合わないかなあと思って着ていません。防寒の機能に関しても圧倒的にダウンジャケットに軍配が上がっています。ですがスラッとした男女がコートを着ているのを見ると、寒い景色に映えていていいなあとは思います。 ・最近の寒さはマフラーをつけないとやっていけません。皆さんは巻き方にこだわりはありますか?僕は二つ折り(?)にしてできた輪っかに逆の端を通す、とてもオーソドックスな巻き方をしています。これが1番楽で見た目もまずまずな気がしています。 ・そんなこんなで寒さを乗り切るために色々身に付けていると、全身がもこもこになってしまいます。歳時記の解説では、「(着膨れは)無精な印象を与える」と書かれていますが、そんなん言われても仕方ないですよね。あんまんさんが紹介して下さった「寒雀」と同じです。 俳句の「怖ろしきものなくなりぬ」には非常に共感を覚えます笑 着ぶくれてもこもこになっていると、車に轢かれても大丈夫なんじゃないかと思えるほど安心感がすごいです。冬の間は怪我人が減っていたりしないのでしょうか。そんなことはないでしょうか。 ・意識の間隙に落ちがちですが、ファッション=装いというのは季節にもっとも依存する営みだと思います。この寒い冬を乗り切るために、自分が、また周りの人々がどのような工夫をしているのか、改めて見直し、語り合ってみてはいかがでしょうか。それが風流心にそのまま通ずると思います。
6日目
★あんまん
みなさん、歳時記の言葉に触れてどのように感じたでしょうか。イヤなみさんに取り上げていただいた「日記買う」や「賀状書く」などは日常から逸脱したような行為ではありませんが、一つの言葉として認識することはなかなかないと思います。一度言葉にして、そして季語として認識してしまえば、そこに新たな世界が生まれた、と比喩したくなるほどの言葉同士の無限のつながりが生み出されます。イヤなみさんが取り上げた『良いことの起こるを願ひ日記買う』を例にとってみましょう。「日記買う」の前に、「良いことの起こるを願ひ」と書かれています。年末になると本屋や文房具屋には来年度の日記がたくさん陳列されていて目をひきます。普段日記をつけない人も年末になるとつけようと思って買ってみたりします。このような新しい年への期待や夢が「日記買う」にガッチリ結びついています。日記を買うという行為自体に来年の期待や夢が詰まっているという見方ができますが、「日記買う」と言葉にすることで、そのつながりが目に浮かぶようになり、実際『良いことの起こるを願ひ日記買う』と書くと私たちに風情を感じさせます。
次に「日記買う」に来年の期待や夢が詰まっているという意味を踏まえて高浜虚子の『我が生は淋しからずや日記買ふ』をみてみましょう。「淋しからずや」の「や」は疑問の「や」です。意味的には「淋しいのではないか」という自己への問いかけです。つまり、句の前半で「自分の人生は淋しいのではないか」と孤独や内省的な感情を書き連ねることで、「日記買う」に付随したポジティブな感情がより引き立っています。また同時に、前半の悲壮感も引き立ちます。
また別のある言葉を「日記買う」につなげると、風情あるつながりが見えてくることでしょう。このように、日記を買うというただの行動でしかなかったものが、「日記買う」という言葉として受容すると、言葉上で、どんな言葉ともつなげることができます。ここに、ただの行動では生み出されない、言葉の、俳句の無限の可能性があります。
俳句は、17文字という少ない文字数の形式だからこそ、使われる言葉のつながりが深く映ります。これが俳句を俳句たらしめている要因と言えるでしょう。文字数が少ないからこそ良いのです。
一方で、匿名希望さんが取り上げた「空風」や「冬の雷」は頻繁に使われる言葉ではないので、初めて聞いた言葉であったという人が多いと思います。言葉は知らねば使うことはできません。これらの言葉を知ったことで、私たちは、冬に北から吹く乾燥した風に当たると、空風がきたと認識することになります。この言葉を知る前と知った後で何が違うでしょうか。私たちは今や「空風」と書くことができます。書くことができるようになると、上で述べたように、他の言葉との関係が生まれます。
一度、これまでで取り上げた歳時記の季語たちを頭の片隅に置きながら、1日を過ごしてみてください。そして、取り上げた季語を季題に、俳句を作ってみてください。その言葉の持つ意味内容の拡張や、まだみぬ言葉のつながりが見えてくるかもしれません。それは、とても楽しいものです。いつもの帰り道に驚かされるはずです。今日は日曜日ですが…
8日目
★あんまん
2024年に石岡丈昇さんの『タイミングの社会学 ディテールを書くエスノグラフィー』という本に出合いました。この本はエスノグラフィといって民俗学などの調査員が生活者の生活環境に身を置き、生活者と行動を共にしてその活動を記録する調査方法のことで、俳句について書かれた本ではないのですが、本の冒頭の上の文章が印象的でした。
昨日も言ったように俳句を作ることで自然の新たな容貌が立ち現れてきます。細かく言うと、俳句を作り反芻することによって生まれてきます。しかし、上の文章は「書く」こと全般のことを表していて、俳句特有の効果ではありません。つまり、現実の新たな一面を見ることが風流を感じる条件ではなさそうです。
では散文と俳句の違いは何だろうか。「良いことが起こることを願って日記を買う」に風流を感じなくて、『良いことの起こるを願ひ日記買う』に風流を感じるのはなぜでしょうか。まず考えられるのは、リズムの有無でしょう。前者は「5,10,6」の無定形で、後者は「5,7,5」のリズムを持っています。リズムとは反復です。では、前者を「5,10,5」のリズムを持たせてみたら風流は生まれるでしょうか。例えば「良いことが起こることを願って日記買う」はどうでしょう。風流を感じるかどうかは感覚的なものですが、私はこれではどうにも風流を感じません。リズムを持たせることで、風流を感じるようになるならば、音楽を聴いても風流に感じるはずですが、少なくとも私は音楽を聴いて風流やわびさびなどを感じたことはありません。
では字数はどうだろうか。「5,10,5」がだめで「5,7,5」である必然性はあるのでしょうか。わたしは字数はそこまで重要だとは思いません。なぜなら俳句で字余りや字足らずでも素晴らしい句はたくさんあります。なにより、尾崎放哉の『咳をしても一人』などの定形を無視した自由律俳句にも情緒を湧きだたせる句がたくさんあります。
私が考えるに重要なのはリズムでも字数でもなく、言葉を装飾させないことだと思います。言葉をできる限りナマの状態で他の言葉と絡ませる。日本語において、なるべく言葉に無駄な装飾をしないようにするのにぴったりだったのが、たまたま75調だったに過ぎず、その字数に必然性はないと思います。そして、言葉が俳句の型にあてはめられることで、その言葉の持つ魔術が引き出されます。俳句の魔術について寺田寅彦は次のように言います。
俳句は言葉の持つ歴史やそれに伴う人間の精神の歴史によって成り立ちます。だから俳句を通して、言葉にこべりついた様々な活動や情動が開放され、そして積み重なってゆきます。これが俳句を通した私なりの言語観です。
質問:言葉をさがしてみたものの、しっくりくるものが見つからないという経験をしたことがありますか。
・Hiroto
質問:言葉をさがしてみたものの、しっくりくるものが見つからないという経験をしたことがありますか。
答え:まさに今です。そういった経験があったことは記憶しているのですが、どういった言葉かも、どのような文脈だったのかも朧げで、なんとも言えません。 ある程度まとまった文章を書いているときには、軽い程度のものも含めると頻繁に起こります。
・あんまん
質問を投げかけといてなんですが、言葉が見つからなかった体験を言葉にするのは難しいと思います笑 俳句を作ろうとするときや文章を書いているときは、しっくりくる言葉が見つからないことが多々あるのですが、見つからないまま放置してしまうと、その時の体験はすぐに記憶の彼方に行ってしまいます。世界には言語で表すことのできない領域があるのでしょうか。それとも、まだ言語になっていないだけでしょうか。いずれにしてもこのような体験から、世界は言語よりも先に成り立っているという考えが浮かびます。一方で、歳時記を読んで新たな季語を頭に入れてから、俳句を作ろうと世界を眺めると、それまでは気づきもしなかった、日常生活や自然の様相が感じられるようになります。このような体験から、言語が世界に先立つという考えも浮かんできます。 どちらが正しいかと考えてみましたが、「考えているのは自分の脳だ」という唯脳論に着地してしまいました。ともあれ、世界と言語の両方向の思考は存在するはずで、鍛えるのに俳句はもってこいだと思います。
・コバ
Q:言葉をさがしてみたものの、しっくりくるものが見つからないという経験をしたことがありますか。
A:学生時代に人並みにJ-POPを聴いていたのは自分の内面のモヤモヤを曲に乗せて外部に発散させるためだったと自己分析しています。20歳くらいになると内面のモヤモヤが複雑化していき(曲という5分ほどの語の分量では全然言語化できなくなっていき)その役割が無くなっていったので熱心にJ-POPを聴くことは減っていきました。これが私の「しっくりくるものが見つからなくなった」体験の1つです。
12日目
★イヤープラグさざなみ
今日から部員による活動振り返りコメントを残していきます。 初回は私イヤなみから。 俳句部に入る前と後の変化など。 言葉はある程度はみんなで共通の使い方をしていますが、それでも自分だけがその語に持っているイメージだとか、そういうものもあると思います。言語を使った表現はどれもそうですが、自分がその言葉たちを並べた意図が相手にそのまま伝わるとは限りません。その意図さえも言葉なので、そのまま伝わるということが原理的にありえないですね。作った俳句の解説をすれば、その句に対して相手ともある程度共通の理解が得られるとは思いますが、俳句は解説込みではありません(と僕は思っている)。五七五の中に自分が伝えたいこと、切り取りたい情景を入れ込み切るのは至難の業で、なんとか色々詰め込もうと自分だけが持つ言語イメージに頼りたくなってしまいますが、そうすると相手に伝わらなくなる(僕にとっては「初めてできた恋人に送った花の名」だが、他の人にとってはそういう「意味」がこもっていない、など)。この「可能な限り詰め込みたい」欲があったのが俳句超初心者の頃です。最近はより素朴な句の方がいいのではないかという段階になっているし、詠む自分と読む相手の理解に偏りがないような(上に書いたように理解の比較はできないのだが)句を作りたいというモチベーションがあります。他にも、歳時記を読んで新しい言葉を知ったり、用例に触れることによってその言葉に馴染む感覚を味わうのも楽しいです。俳句楽しいです。きれいな景色の写真を撮る感覚と、たぶん似ています。写真と違うのは、撮られた写真が写真そのものでしかないという意味で固定的なのに対して、俳句の方はそれを詠んだタイミング、そのあとに読み返すタイミングによって味わいが変わることだと思います(「あのときこの俳句詠んだなぁ。懐かしい」以外の感じ方があり得る)。
★匿名希望
本日は匿名から,俳句を1年ほどやってみて感じたことについて共有したいと思います. 俳句の制作・調査・閲覧に取り組む前は,それらに取り組むことで,心の余裕が生まれてしまい, ぼんやりする癖がついてしまうというか,張り詰めることが出来ない,詰めの甘い人間性になってしまうのではないのか,と危惧していたのですが, 実際に取り組んでみると,別にそのようなことはなく, ひとつひとつの言葉・単語に対して,じっくりと吟味し,それだけではなく,部内で感覚を共有し合うことで, 言葉を吟味し味わうことの楽しさや,共感した際の感覚を味わうことができたと感じております. 作った俳句を発表し,それらについて,感じたことなどを共有し,自分の中で何かが繋がったように感じた際の歓びは,自分にとって非常に歓びを感じるものでした.あのときの感覚を思い出すと,今でもワクワクします. まとめますと,俳句部に入って非常に良かったと感じています.
14日目
★あんまん
最終日になりました。最後に私の俳句を約一年間振り返りです。 俳句をやって、まず感じることは、自然の細部まで目が行き届くようになりました。これは、何度も言っていますが、何度も言ってしまうほど、驚きの体験でした。俳句をやる前は気づかなかった、自然の美しさが飛び込んでくるようになるという体験をしました。もともと、所長にナチュラリストだと言われるくらいには動植物が好きでしたが、俳句を始めてから、より一層その世界に入り込んだような気がします。 また、歳時期などを通して俳句から、それまで知らなかった言葉を習得することの楽しさを噛み締めています。言葉を習得すると言っても、英語とか外国語を学ぶのとは少し感覚が違います。外国語の習得は、すでに馴染みのある言葉の変換もしくは、全く異なる生活の発見という度合いが強いですが、俳句から学ぶ言葉は、すでに馴染みのある生活を再発見することの度合いが強いです。おそらくこの経験ができるのは俳句だけだと思います。 そして、「何を書かないか。書かれていないのか」という意識を強く持つようになりました。俳句では、17文字という制約上、書き表したい内容量に対して、書かれていないものの内容量が多くなります。あらゆる取捨選択を重ねた上で、残ったものが17文字の俳句です。なので、俳句を嗜んでいると、必ず何が書かれていないのかを意識するようになります。今月に、Kogawaさんと札幌で話していてそんな話題になったのですが、俳句にも通じるなと感じました。 なんだか2週間を通して私の俳句賛美になったような気がしますが、それを聞くのも一つの体験としてこのワークショップを楽しんでいただけたなら幸いです。ありがとうございました。
(ログ作成者:あんまん、イヤープラグさざなみ)