友達って雲みたい
人との関係を表す言葉のうち、相互的にそうである言葉は安心して使える。
親子、知り合い、ご近所さん、同級生とか、そういうの。
友達って、曖昧な言葉。
いま、出会うたびにうーんと考えてしまう。
日常の中で語の定義を考えて使わなくたっていいものがたくさんある。
考え出したら急にわからなくなってしまった。
「わたしの友達がね」って、言えなくなった。
同級生なら「わたしの同級生の子がね」と言う方が適している気がするし、ちょっと長ったらしいけれど「大学時代によく一緒にお昼を食べに行った子がね」と、言い換えたほうが良い気がしてしまう。
SNSの友達がそのまま友達の数なら、わたしの友達は何百人もいる。
でも、それって、ただボタンを押した人。
それなら、定期的にメッセージを送り合う人は、友達?
年に何度か遊びにいく人?
学校や仕事がない日に、集合時間を決めて、一緒に出かける人?
何年も会っていなくてもふとした時に元気かな、って思い出す人?
困った時に助けてがあげたいと思う人?
困った時に助けてって言える人が友達?
すっかり、頭でっかち迷宮にはまりこんでしまった。
言語化した友達基準を持てばいいのか。
でも、どうしても、友達とは、と基準をもつなんて、恐れ多くて、自分の内側で「友達…」と言葉がふわんふわん反響する。
世界はフォロー・フォロワーのようにリスト化されていないし、友達申請なんて儀式はない。
どんな人だったらフォローを返すか、友達申請を承認するかということと、リアルは違う。
友達の基準論はいまのわたしにも意味はなさそう。
だからといって、友達はいらない、友達って重要ですかという課題ともちがう。
友達の必要性論で苦しんではいない。
本当の友達とは何かとか、誰が友達かとか、友達は何人かとか、そういう問いにぶつかっているわけではなくて、ただただ「友達」という言葉がやわらかで柔軟で多様性があるからこそ、むずかしくなってしまった。
やわらかくよくわからないまま、でもたしかにあるかなんて考えることもなくていいものを、定義する価値観や装置があるせいで、惑わされてしまったのかしら。
なんか、雲みたいだと思った。
雲はいつもあって、いろんな形があって、たしかに存在しているのに、触ったり取っておくことはできない。
図鑑や辞書を手に取れば、ちゃんと定義はあって。
でも文字列とにらめっこしても、雲を取り出すことができない。
そもそも言葉から取り出そうなんて思わない。
そこにある雲を言語に変換したいわけじゃない。
言葉って、世界って、そんなものばかりなんだけど、なぜかピンポイントで固執してしまって足がすくむことってある。
でも、そういう操作がうまくいかないことは、現実世界ではたいして意味のないことだったりする。
雲が信じられない!とはならない。だって、そこにあるものね。
そうなのよね、そこにあるのよね。
ものすごく自然に、言葉にできない感覚のようなもので友達って言葉を使っていたという発見。
それが、ものすごく幸せなことだったと気づいた。
「友達」って、きっと長い時間をかけて変化していく、感覚のようなものなのだろうな。
決して、天性からの感性を失ってしまって、二度と取り戻せないってわけではない。
また長い時間をかけて、しっくりくるようになるといい。
今は、友達は、わからない。
でも、幸せになってほしいと思う人がたくさんいる。
それでじゅうぶんだと思う。
友達って言葉がふわふわしてきたら、ふわふわのままでいい。
友達って言葉がしっくりくる日が、きっといつかやってくる。
混沌の景色を味わって、わたしのことを友達って思ってくれる人に、ありがとうって伝えよう。