![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/127694990/rectangle_large_type_2_0a8c94cd5bf4057d722b37872eba5f9f.jpeg?width=1200)
Recoの君語りー『光る君へ』(第3回)「謎の男」ー
主人公は紫式部。 平安時代に、千年の時を超えるベストセラー『源氏物語』を書き上げた女性。彼女は、藤原道長への思い、そして、秘めた情熱とたぐいまれな想像力で、光源氏=光る君のストーリーを紡いでゆく。
変わりゆく世を、変わらぬ愛を胸に懸命に生きた女性の物語。(NHK)
自分のせいで放免に捕らえられた道長(柄本佑)を心配するまひろ(吉高由里子)。しかし、父の為時(岸谷五朗)に謹慎を強いられたため、ただ案じることしかできない。兼家(段田安則)の指示で道兼(玉置玲央)は女官を使って帝の食事に毒を仕込み、円融天皇(坂東巳之助)は急激に体が弱っていく。政権を掌握するために二の手を打ちたい兼家は、ライバルの左大臣家の動向を探るため、為時を利用してまひろを間者として送り込む。
![](https://assets.st-note.com/img/1705835467162-FVI2PIdMPs.jpg?width=1200)
【家系図】
【紫式部の家族(ドラマの設定)】
前室・藤原為信の娘:ちやは。紫式部が9歳?の時に殺害される。
┣長女:ドラマには登場しない。
┣次女:まひろ。紫式部(970 -?):このドラマのヒロイン。
┣長男:太郎。藤原惟規(971? -1011):越後国で死去。享年41。
藤原為時(越前守→越後守)
┣次男:藤原惟通(979? - 1020)ドラマには登場しない?
┣三男:定暹(980? - ?)ドラマには登場しない?
┣三女:藤原信経室 ドラマには登場しない?
後室・詳細不明 ドラマには登場しない?
※ドラマでは藤原惟規が「たった2人だけの姉弟(きょうだい)」と言っており、他の兄弟姉妹は登場しないようである。
【藤原氏(北家)】
藤原忠平┳実頼━頼忠┳遵子(円融天皇中宮)
┃ ┗公任
┗師輔┳伊尹━懐子━師貞親王(後の花山天皇)
┣兼通
┣安子┳冷泉天皇(第63代)
┃ ┗円融天皇(第64代)
┗兼家┳道隆━定子(一条天皇中宮)
┣超子━居貞親王(後の三条天皇)
┣道兼
┣詮子(円融天皇女御)━懐仁親王(後の一条天皇)
┗道長
※藤原氏(北家)は、娘を天皇と結婚させ、生まれた子の祖父として摂政、関白になり、政権を牛耳った(「摂関政治」)。
藤原(北家)頼忠━次女・藤原遵子(じゅんし/のぶこ):皇后(中宮)
┣(無子)
第64代・円融天皇
┣懐仁親王(第66代・一条天皇)
藤原(北家)兼家━次女・藤原詮子(せんし/あきこ)
・結果、藤原親忠の娘・遵子は男子を生めず、藤原兼家の娘・詮子は生み、藤原(北家)では、藤原兼家が力を得た。
【天皇家】
村上天皇(第62代)┳冷泉天皇(第63代)┳花山天皇(第65代):母・懐子
┃ ┗三条天皇(第67代):母・超子
┗円融天皇(第64代)━一条天皇(第66代):母・詮子
冷泉天皇が退位した安和2年8月13日、安和元年10月26日生まれの花山天皇は幼かったので、成長するまでの繋ぎとして弟・円融天皇が即位した。成長した花山天皇が即位したが、藤原兼家は、天皇になれるはずのない円融系の孫・懐仁親王を一条天皇として即位させるために陰謀を巡らし、花山天皇を約1年で退位させ、一条天皇が即位すると、外祖父として力を得た。
以後、冷泉系と円融系との皇位迭立が続いたが、円融系を父方、冷泉系を母方とする後三条天皇(第71代)の即位により、両皇統は融合された。
1.謎の男
自分のせいで放免に捕らえられた(店の前で百舌彦の買い物を立って待っていた)藤原道長は、すぐに(藤原兼家のお気に入り・平惟仲によって)赦免されました。そうとも知らず、藤原道長を心配するまひろでしたが、フクロウの鳴き声を聞いて外に出ると、
「あの男は無事だ」
と「謎の男」に告げられました。
最後に、この「謎の男」が、散楽を演じている直秀(毎熊克哉さん)であることが分かった時点で終了。次回「五節の舞姫」へと続く。
※看督長(かどのおさ):検非違使庁に属する下級の役人。牢獄の管理や犯人の逮捕を行う。
もちろん、サブタイトルはダブルミーニングであり、まひろにとっては、三郎も「謎の男」のままです。
2.平安女子のお勉強会
【左大臣・源雅信(※まさのぶ)家】
源雅信
┣次男・時通(965-?)
┣八男・時叙(寂源)(?-1024)
┣男子・時方
┣女子・倫子(964-1053): 藤原道長北政所
┣女子・中の君(?-1000):藤原道綱室
藤原穆子(ぼくし/あつこ。藤原朝忠の娘)
※ドラマのように「まさのぶ」と誤読されたのは、江戸時代の『寛政諸家系譜』以降であり、正しくは「まさざね」と読む。
(1)赤染衛門
丹波守の北の方をば、宮、殿などのわたりには、匡衡衛門とぞ言ひはべる。ことにやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとてよろづのことにつけて詠み散らさねど、聞こえたるかぎりは、はかなき折節のことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。ややもせば、腰はなれぬばかり折れかかりたる歌を詠み出で、えも言はぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、憎くも、いとほしくもおぼえはべるわざなり。
(式部大輔正四位下兼文章博士侍従丹波守・大江匡衡(おおえのまさひら)の正室を、(おしどり夫婦として知られており、その夫婦仲により、)宮(中宮彰子)や殿(藤原道長)の周辺では「匡衡衛門」(まさひらえもん)と言っている。この方の和歌は、「特に優れている」と言う程ではないが、実に風格があり、歌人として、様々な場面で、軽々しく詠むようなことはないが、知る限りでは、ちょっとした折節のことも、それこそこちらが恥ずかしくなる(程、上手に)詠むそうです。(この匡衡衛門程の力量が無い人が)ややもすると、腰(和歌の第三句)が離れそうになる程、折れかかった(下の句と離れた)「腰折れ歌」に近い歌を詠んでおいて、言いようのない「由ばみ事」(上品ぶって気取っていること、風流ぶっていること)で(したり顔をして)「私はすごい」と思う人がいるが、(「身の程知らず」だと)憎らしくもあり、また気の毒だとも思う。)
※腰折れ歌:和歌の第3句と第4句との接続がうまくない下手な歌。
(2)「偏継ぎ」
記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。