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映画「君を愛したひとりの僕へ」を観た

映画「君を愛したひとりの僕へ」(君愛)を観てまいりました!

素晴らしかったです。面白かったし、切なかったし、愛おしかった。

本作はまさしく王道ラブストーリーなのですが、一方でマニアックなSFでもあり、隣に座っていた見知らぬ親御さんは我が子に「難しかったね」と一番に仰っていたので、なるほどそう思われる節もあるでしょう。
これを恋愛ものとするならば、ヒロインの出で立ちも含めてあまりにも王道で古典的。
勿論、それがマイナスではなく魅力として成立しているのですから、僕はあえて同時公開の「僕が愛したすべての君へ」(僕愛)ではなく、こちらを観ようと決心したのですが。
僕のヒロイン観がまずその時点でうかがえます(笑)

ストーリー的にもSF要素は、具体的には「シュタインズ・ゲート」シリーズが好きかどうかで、かなり印象に差が付くかと。ただ、「なんだシュタゲか」と差異などで揚げ足を取るようなものではなく、あくまでも理解度が高まるという意味での例です。
あとは、先日、二期制作が決定した「青春ブタ野郎」シリーズ好きにもオススメですね。映画化された「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」が近いかと。

個々の意味を他のテクストとの関連によって見つけ出す、いわゆる「間テクスト性」という要素が、実際(メタ)の上でも、そして「並行世界」という設定の上でも重要となっています。

さて、例えば終盤のスタッフロールも、その性質を活かすことで、背景を動かさずに「あること」が表現されていました。その他にも、手が触れて恥じらうシーンがあまりにも王道ですが、それ故に、喪失感も大きくなるなど、やはり無駄がない。
油断していると、案外、見落としがちな箇所も幾分かあるでしょう。その結果、恋愛としては楽しめたが、「難しかったね」となるわけです。

あとは、視聴者側がロマンチストであるかどうかもかなり大きな幅を占めていると思います。
noteでは多々、映画の感想を載せており、その際に幾度か書いたことですが、感動は主として罪悪感から出づるものだと考えられます。

その意味で、本作の感動は、主人公の言動、そしてヒロインの状態が、感動を起こさせるのは勿論なのですが、そもそも、罪悪感を無理に抱かせないところが昨今ではかえって特異であると思います。
本作の主人公は、よくある「主人公」と異なってあくまでも主体的で、視聴者は感情移入だけでなく、予想さえる王道性に対して、考えるようになります。主人公が、視聴者の知らない学術的知識を基に歩むのが良い例です。
この点が昨今の受動的な、時として感動ポルノと揶揄される作品との違いでしょうか。

この考える部分が、繰り返すように、「難しさ」を生み可能性があり、あくまでも考え続けるには、やはり視聴者もまた主体的である、それを信じるスタンスがいささか求められ、それをして私はロマンチストであると感じるのです。
ヒロインだけが「理想」で、それ以外は(一応)現実ベースであるため(一応のニュアンスも込めて「拡張現実」とでも言おうか)、世知辛さもあり、それ以上に苦悩が徹底されています。
SF好きでないにしても、例えば思考実験が(日頃から)苦でないようであれば、問題ないのですが、ラブコメに親しんだ人であれば、王道であるのに、自分の想っていたものではない、すなわち、自分の知っている「恋愛もの」の中では異質だとも感じるのでないでしょうか。
関連グッズを販売しないなども、やはりSF作品としてのプライドを感じさせます。
「セカイ系」としてよくある定義とはやや異なるようですが、本作をセカイ系とするならばかなり高級だと言えるでしょう。レベルが高い。

ただ、本作はサービス精神のようなものも垣間見えます。「僕愛」を未視聴・未読であるため、あくまでも憶測ですが、それでも、もう一つの「セカイ」を彷彿とさせるシーンがあり、もう一作も観たい、もしくはもう一作のことも空想させる部分がありました。
これは、かつてポケモンの最盛期とも言いたくなる、劇場版ポケットモンスターベストウイッシュ「ビクティニと黒き英雄ゼクロム」「白き英雄 レシラム」という、まさしくパラレルワールドのような同時二本公開作品がありましたが、こちらは相互性が実は無く、はっきり言って、両方観なくても問題ないストーリー仕立てでした。
しかし本作は、「見る順番で結末が大きく変わるふたつのラブストーリー」というキャッチコピーなので、私自身、楽しみにしています。

原作小説を両方買いました。
ハヤカワ文庫………ライト小説というより、やはりSF小説と言えるでしょう。


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