自分を閉じ込める「ずるい言葉」を考える
今日は朝から、国立市公民館で開催された講座にオンライン参加。
3回シリーズのうち第2回目でした。
普段自分が発している言葉が相手にどのような影響を与えていて自分自身もどのように縛られているか、改めて考えるきっかけになりました。
他の人にも役立つことがあるな、と思ったので文章に残しておきます。
今回のまとめ
・「見た目」の判断は差別なのか?という問いから、日常で起きていることをつなげ自分の行動も振り返る時間だった。
・カテゴライズは「差別」の構造に近づき、主観が「世間の声」にすり替わることで責任の押し付けが発生する可能性がある。
・このテーマは、女性が語る時間がもっともっと必要。私ができるのは、その時に男性がスペースを取らないようはたらきかけること。
講座の内容
今回の講師は「クィア・スタディーズ」という研究をされている森山さん。
ご本人のtwitterに、今回のこともアップしていました。
社会学者というバックグラウンドもあり、内容はアカデミック&フィールドワーク(実例)が編み込まれたもので、最初の問いも理論の要素多め。
・「見た目」は社会的カテゴリーか?(個人の問題ではなく、社会構造の問題としてとらえることが可能か?)
・「見た目」による判断そのものが「差別」として言えるのか?(「見た目」は他の属性(例:女性)と合わせて差別と認識されることが多いが、「見た目」単体で差別として説明できるか?)
そこから、「あざとかわいい」という具体的な言葉を入口に話が展開。
「あざとかわいい」という言葉、私は聞いたことぐらいしかなかったのですが女性誌等でけっこう使用されているようです。検索してみたら日向坂46の曲名にも使われてました。
ここで語られたのは「『見た目』が評価される側だけに責任を押し付けられている」構造。もう少し整理すると、
①「評価する側」が感じたことを「世間一般の意見」にすり替える。
②それを「評価される側の良しあし」として責任を押し付ける。
③この「価値観を押し付ける」流れが自動的におこなわれている。
これは「見た目」だけじゃなく、他のことでも頻繁に起きているし自分も普段やってしまっていることだと感じてます。
見た目のことも他のことも、自分が嫌だというのを言いづらくて、つい一般論にすり替えて批判している自分の姿を思い出し「自分もやってる・・・」とはっとさせられました。
他にも「モテ/非モテ」「愛され」「美魔女」等、見た目に関するいくつかの言葉を見ていっても同じ構造が見えてくる。
一方で、出てくる言葉は女性に対して使用されることが多いものばかり。女性が見た目で判断され続ける社会を、判断する側にいる男性として改めて認識させられました。
必要なプロセスとしての「お焚き上げ」
講義後の質疑応答は、講師の森山さんが使った「お焚き上げ」という表現に導かれ、それぞれの方が経験をシェアし、その内容に他の方が共感したり、似たような経験をシェアする方がいたりと、誰かが語ることで他の方の癒しにつながるような時間になりました。
質問が多く出たのも印象に残っていて、それだけ、見た目に関する話は普段できないもので、話せる機会はとても貴重なものなんだ、と思いましたし、この時間は必要かつ大事なものという認識を強く持ちました。
結果として30分延長となりましたが、本当はもっと時間が必要なんだろうとも思います。
この場で感じたこと
今回聞いたこと、語られたこと、考えたことは、普段の自分ではまったく思いつかないことが多々ありました。特に、女性の方々が語ったことは「そんなことがあるのか・・!」と強い衝撃を受けました。
裏を返すと、私は考えずに済んできたことがたくさんあるんだ、ということを強く感じる時間でもありました。
男性としての私は「評価する側」になることが圧倒的に多いと思います。
社会の作りが男性中心になっている以上、よほど意識してもそうなってしまうことが多いと思うんです。その時にどう振舞うのか。
答えがあるわけじゃないけれど、私ができるのは
・自分が評価していることに気付き、その視点から離れてみる
・私が相手の話を聴き、相手のスペースを奪わないようにする
・何より、自分自身のスペースを大事にする
本当に自分の知っている世界は小さいし、わからないことがたくさんある。
そのことを忘れず、それでも「知りたい!」という探求心も忘れず、引き続き様々な経験を積んで周囲の人にお返ししていきたいと思います。
最後に、今回の企画を考えていただいた国立市公民館のみなさん、講師の森山さん、本当に大事な場を開いていただいてありがとうございました!
今回の内容はみんなが知っておいたほうがいいし、まだまだ入口に着いたばかりという感覚もあるので、これからも講座をチェックしていこうと思っています。
※講座はこちらから確認できるみたいです。