茶道論「分限論」 —江戸時代—
「分限論」とは
異風を良しとした戦国的茶の湯が世の非難を浴びるとき、すなわち近世的な茶道の成立である。異風に包まれる芸能性の否定と理論を茶道に付与する。いわゆる分限論である。
分限論とは封建社会の基本的な秩序の思想で、人はみな、それぞれ己の分限をもち、その分限を守ることが生き方として最も重要視される思想である。
世間では、利休が町人の分限を忘れて天下人の側近となった結果、罰せられたとし、織部もまた同様であると非難する声があがった。
初期幕政の思想に合致することが近世文化として繁栄するための条件である以上、茶の湯はその奢侈性や遊楽性への非難に応える必要があった。その理論化を荷った一人が小堀遠州である。
『遠州書捨文』
江戸中期には「茶の湯」が「茶道」と称されることが多くなった。茶人が個人的な芸から家芸へと転換していった。いわゆる「家元制度」である。茶道は個人の心の問題だけでなく、家業を守り、付き合いを保つ上で社会的意識として分を守ることが必要であるとしている。これは儒教的な江戸時代の思潮であり、遠州はその一例である。茶道における分限論は近世初頭に現れ、18世紀中期以降にその機能が強く意識された。
宝暦期(1751ー1764)を中心に、三都(京・大阪・江戸)の発展はめざましく、都市生活は豊かになった。蔵前の札差などの豪商が「十八大通」と称され、通人ぶりが喧伝されるようにな時代が到来し、茶の湯の遊芸化が一挙に進んだのである。いわゆる七事式が考案され、新興茶人の要望にこたえる茶の湯が生まれた時代である。
参考文献
熊倉功夫、1999年「茶道論の系譜」熊倉功夫・田中秀隆編
『茶道文化体系 第一巻 茶道文化論』淡交社。
桑田忠親、1987年『茶道の歴史』講談社。
谷端昭夫、1995年『チャート茶道史』淡交社。