茶禅一味の初見
茶禅一味の初見は大林宗休が武野紹鴎の画像に賛した偈である。
「大黒庵主一閑紹鷗」とは、武野紹鷗のことである。「曾結弥陀無碍因」とあるように、阿弥陀如来の念仏宗であったが、堺の南宗寺、大林宗套に禅宗に参禅した。「料知茶味同禅味」が、「茶の極意と禅の極意が同じことである。」ということであり、これをもって茶禅一味といわれる所以とされている。十六世紀の前半に、茶禅一味の思想が芽生えていたと推察される。
茶禅一味論
桃山時代の茶の湯は、茶人の存在そのものが新しい表現であった。
定型化をもたず、茶道観を体系化することへの興味が薄かった。
江戸時代初期、千宗旦の子であり、表千家四代江岑宗左が書き残したとされる「江岑夏書」において、型としての定型化、論の展開、茶禅一味論の完成を見ることができる。
大意は
「利休流には茶の湯について書付けたものはない。たとえ利休自筆の書付けが万が一あったとしても、それは当時のものであり、今の時代には役に立たない。その上で、利休が書付けたものはまったくない。この書付けは書かなければならないものではないが、私自身の慰めのために思い出したことばかりを書いている。何れもこれまで書かれていないことばかりである。」とある。書付とは伝承や茶の湯の教えを書いた茶書のこととされる。江戸時代初期において茶書を書くという意識が変化したことが窺える。
『南方録』の茶禅一味
『南方録』「滅後」
茶の湯の歴史の中で、江戸時代中期では「庶民への普及」「茶の湯人口の増加」「茶の湯の遊芸化」が顕著であった。千利休以降、茶道論としての「茶禅一味」は危機的状況におちいった茶の湯に対する批判や、遊芸化に対する精神性の復活宣言が常に禅を基点としてはじまる、ということであったといえる。
参考文献
熊倉功夫、一九九九年「茶道論の系譜」熊倉功夫・田中秀隆編
『茶道文化体系 第一巻 茶道文化論』淡交社。
筒井紘一編、二〇二一年『茶道古典集成一一 南方録と立花実山茶書』淡交社。熊倉功夫、二〇〇九年『現代語訳 南方録』中央公論新社。
画像:薮椿(筆者撮影)