茶書を読む 『南方録』②
『南方録』全七巻
「覚書」
「覚書」は巻頭にして『南方録』の総論のような巻である。
「茶の湯とは何か」と主張が明確に説かれ、茶の湯が仏教に根差し、脱俗の行いであると説きながらも、禅宗に囚われることなく日本人が本来持っている「キヨメ」の観念や火に対する意識などを挙げている。さらに茶の湯の歴史、茶会論、遊興の茶会を否定し、わびの精神をあらわす道具、茶花、懐石、点前のあり方について論じている。
「覚書」の最後にはわびの心の表現として和歌を引用している。
武野紹鴎のわび茶
武野紹鴎の茶の湯の心は、藤原定家の一首に表されている。
「見渡してみると、花も紅葉も何もない、、ただ水辺の苫屋だけが見える秋の夕暮れである」
花、紅葉の華やかで立派な世界を見尽くした人でしか苫屋のように寂びた境地を見出すことはできない。つまり書院台子の茶を味わい尽くした先にわび茶があり、その境地こそが本当の茶の心だとしている。
千利休のわび茶
また利休は今一首わび茶の心を表す歌として藤原家隆の歌を表した。
「花をばかり待っている人に、山里の雪の間に芽を出した草の春を見せたいものだ」
世の人は、外の山を見て桜がいつ咲くだろうかと目にみえる形のある世界ばかりを探し求めているが、真の花が自分の心にあることに気づかない。うずめ尽くした雪が、春になって陽気を迎え、そのとけはじめたところに青々とした草の芽がほつほつと二葉、三葉もえいでいるのに似て、作為を加えないでこそ真実なものがあるという道理を表している。
参考文献
熊倉功夫『南方録を読む」1983、淡交社。