きみもこっち(中動態の世界)においでよ
中動的な世界 意志と責任の考古学(國分功一郎)医学書院
圧倒的な勉強量・思考量。生きている世界、見ている世界が違うことを痛感させられる。そもそもこの本を手に取ったきっかけは、騒がれていたし、医学書院の「ケアをひらく」は良書だらけだし、読んでみたいなという感じだった。というか、半分くらいは(え、この本読んでる俺ってカッコいいんじゃね?)という色気が出ていたのは事実…苦笑。
著者ができるだけ平易な文章で、読者にわかるように努めて書いてくれているということがとても良かった。難しそうなところはしっかりとまとめてくれるし、そして繰り返してくれる。大事なことを強調してくれる先生の授業のようだ。
だが、色気なんてどうでもよかった。この本は良すぎる。ヤンデル先生が言っていた「この本を読んでるかどうかで価値観が違う」と言っていたが、納得。そのレベルだった。
まず「中動態」および「中動的である」ってなによ、という話から入る。全ての動作は能動と受動でわけられるわけでない。「思いに耽る」といったような、能動と受動のどちらでもないような動作はたくさんある、という話から入っていく。
自由意志の話から、自分が全て能動的に動作を起こしているわけでもなく、受動的に生きているわけでもない。「思いに耽る」というように(思いに耽るぞ)と思いに耽るわけではなく、何か外的条件が揃ってからプロセスがスタートすることがあるという問題提起を行う。すなわち、動作には能動的ではない。しかし受動でもないというものがあることがわかる。
そして、言語学・哲学の話が続いていく。世界は能動態と中動態というパースペクティヴからスタートして、中動態が受動態に取って代わられ、現状が出来上がったということ。そしてそのパースペクティヴに立ち、ドゥルーズやハイデガーなどの哲学を理解していく。この辺は哲学者の研究を追体験しているようで、楽しかった。ただ、正直深い思考を保ちつつ読んでいるというより、理解してついていくのがやっとだった感がある。
僕がこの本を読んで本当に感銘を受けたのは最後の章「ビリーたちの物語」だ。この章では『ビリーバッド』という小説の登場人物の考察から中動的な態度および行動、そして本題である「中動態の世界」について論ぜられている。
ざっくりまとめちゃうと、人はみな中動態の世界を生きている。あの人もあいつもあの子もあの娘も、全員過去からのつながりを引きずって現在を生きている。だから絶対的な能動や受動などなく、みんな中動態の世界に生きているんだ、と。そして、中動態の世界は、自由と強制の間にあるのだから、その仕組みを知ることで私たちは自由に近づくことができる、という話だ。
読んでいて、こんな話を思い出した。数年前、他校(割とゴリゴリした進学校)に勤める教師(友達)と話していた時のことだ。
その友人は(当時)話題のアクティブラーニングが好きだったが、その勤務先は全然違う校風だった。そこで彼はいきなりアクティブラーニング(学び合い)を行って、大失敗をした。(生徒はただひたすらにダベって遊んだらしい)。その話を聞かされた僕は「まぁ、生徒はその学校の文化の中で生きているからねー」と答えた。今になって、中動態の世界の内容とリンクするのでは、と思う。
やっぱり生徒って中動態そのもので、今までの文脈を背負って過ごしているよね、と。生徒は日々を生きる中で、色んなこと選び、生きている(部活や勉強の仕方や文理とかもその一例)。そこでの選択は自分なりのチョイスであると思いがちだが、実際はかなり過去および周囲の影響を受けている。たとえば、親がスポーツを好きだった、入った学校のサッカー部が強豪だった(からサッカー部に入らなかった)、社会の先生のことが嫌いだった(から理系を選んだ)etc…。
こんな感じで、生徒は今まで生きてきた家族・過ごしてきた友達や上下関係・そして学校の文化をモロに受けて選択していく。そして、その受け具合は生徒それぞれで全く異なる。家族の影響が超濃い生徒もいるし、友達の影響しかり。学校のことが大好きで、その影響を大きく受けている場合もある。そして、僕たち教師は個々人のその構造を読み解く。そして自ら自由に近づくことのできる大人に育てていく。
(ただ、その生徒にかかっている(悪)影響が家庭環境や社会の構造など、なかなか動かせないものだったときには特に頭を悩ます。)
そんな形で、僕たち教師は(というか少なくとも僕は)その生徒がなぜそのような人格や思考になったのか、理解しようとする。そして、その前提をもとに対話を行う。
こんな感じで、中動態の世界を生きている、という概念はどんな人でも使っていけるものなのではないか。世界が少し見やすくなってしまう。
人がそれまで生きてきた世界に思いを馳せ、自由に近づくように、考えをめぐらせるようになれる。もう少し自信をもって。そんな出会いを得た一冊。
(以下はケアと中動態の世界についてと考えたことをつらつらと)ネット曰く、哲学をやっている人からすると、アタリマエのことしかこの本には書かれていないらしい。しかし、哲学サイドからみると当たり前のことが、ケアの文脈で出版するとバカ売れしたらしい。うーん、なんでなんだろう。この本がケアの文脈で売れる理由は。「ケア」という文脈で、この本が誰に、どのように影響を与えているのだろうと考えていた。もちろんケアを行う人たちの心の中に、この本がフィットする何かがあったんだろうけど。ケアをする側の人たちにどのようなメッセージを届けたのだろうか。やはりケアしている人も、ケアを受ける人も「全員が中動態の世界で生きている」ということを頭でしっかりとわかることに意義があるのかな。このことは、ケアする(観る・看る)ときに、この人はどういう文脈を背負って生きてきた(生きている)のだろう?とアンテナが立つことに意味があるのかもしれない。さらに、過去の文脈を想像する(ときに対話を経て確かめる)ことで、相手を自由寄りの中動に導くことが出来るのではないか、と思った。
追記
写真はGWに撮った家族の写真。いい時間だったなぁ。
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