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趣味の読書011_子どもと貧困の戦後史(相澤真一、土屋敦、小山裕、開田奈穂美、元森絵里子)
2000年代後半以降に盛り上がった「子どもの貧困」問題について、戦後からその問題がどう語られてきたのか、そして語られなくなったかについて、手書きで他の復元等を通して分析した著作。160ページとかなり短いが、ありそうで他に例のない分析で、非常に興味深い。
本書で掲げられた目線は、子供は重荷なのか、エンジンなのか、というものだ。特に児童、生徒の段階では、子供は労働力として期待できず、単なる「ゴクツブシ」である。他方、特に教育を受け労働市場に参加することで、将来的に家計を支える重要な労働力となりうる。
貧困世帯は、子供を重荷かエンジンか、どちらととらえていたのだろうか?
分析は大きく3段階で、まずは戦後直後の復興段階(がようやく終わりつつある)1952年の、静岡県の「貧困層調査」を基に、戦争未亡人等の生活保護受給者を中心に、そうした世帯の子供の実態を解き明かしている。その後さらに、当時まだ生々しかった戦災孤児や浮浪児の描写がどのように変遷していくかを追いかける。浮浪児は、戦争の被害者としての側面と犯罪者集団としての側面と、まさに戦後の闇を象徴するような存在だったようだが、徐々にそうした描かれ方はなくなり、むしろ平和を希求する伝道者としての役割を負わされるようになった。
次いで、1950年代後半に時代を移し、神奈川県の調査データを基に、新学校制度が急速に定着する中で、少なくとも義務教育についてはきちんと通わせる風土が定着していった。同時に貧困層の中でも、高校進学を目標とする世帯が増えるなど、静岡県調査では、重荷としてとらえられることが多く、何なら学校に行かずに労働力や家事補助等を期待されていたことと比べると、貧困世帯においても、子どもの存在が重荷からエンジン(少なくとも将来の期待)に代わっていくさまが読み取れる。
1960年代については、神奈川県等の「生徒会誌」をテキスト調査して、その様相の変化を確認している。1950年代には、世帯の貧困状態が、比較的赤裸々に生徒会誌の中で触れられており、卒業後に働いて家計を助けねばならないなど、貧困家庭の子供が直面していた現実と具体的な将来が読み取れる。しかし60年代になると、将来はより抽象化され、代わりに貧困の実態は後景化し、社会貢献への期待、本書の記述では「理想」が語られるようになっていく。
残念ながら、本書のリーチはここで終わっている。1970年代から、本格的に子供の貧困の実像を描き出すプロセスが社会から失われてしまったのではないか、と推察されるのだが、そこは全く分からなくなっている。少なくとも、1970年代には中卒労働者が一定数いたため、子どもの貧困がなくなったとは言えない時代だったようだ。
やや時代は戻るが、一部本書と同じ作者たちの「家族と格差の戦後史」では、1965年前後の格差の実態について描かれているらしいので、こちらも今度読んでみたいと思う。
とりあえず本書のリーチである、戦後から1960年代までに論点を戻すと、戦後復興で貧困が現実としてあり、戦後復興が政治的にも経済的にも主たる目標だった時代には、貧困も、労働力としての子供の姿も、現実として赤裸々に描かれていた。ただ、1960年代に入るにつれ、戦後復興から高度成長に社会のテーマは移り、子どもに教育を受けさせること、未開の地方を開発し(列島改造論)「教化」すること、そうした子どもたちが、新たな時代を開拓していく、という姿が前面に出てくる。労働力として(そしてそれ以前の「重荷」として)ではなく、明るい未来のためのエンジンとして、子どもが位置付けられるようになる。戦災孤児たちが、戦争の被害者かつ犯罪者擬きだった時代から、平和の伝道者として新たな役割を持たされるようになったという本書の指摘は、子どもに何を期待するかという、重荷からエンジンへの転換と極めてパラレルな事象だったように感じられる。
もう一つ、本書から感じた重要な指摘は、2000年代(特に阿部彩氏の「子どもの貧困」が出版された2008年以降)の、子どもの貧困の「再発見」についてである。
先ほど述べたとおり、1970年代以降の子どもの貧困の実相がどんなものだったのか、本書では語られていないし、簡単に調べてみた限り、そもそも公式統計がほぼなく、分析しようにもできない、という問題があるようだ。
察するに、戦後の全体的貧困問題は解決された、ということで、貧困問題は等閑視されたのだろう。ここも完全に推察だが、1970年代以降、子どもは学校や家庭という、貧困や格差から覆い隠すことができるベールの中でのふるまいだけが注目されるようになったのではないか。子どもは、これからの社会を担う逸材として期待され、理想を託されるものの、その細やかな現実は、学校や家庭の中、その奥に押し込められてしまったのではないか。むしろ当座の問題は、社会にはばたく子どもをいかに育てるかであり、方法論としての詰め込み教育や受験戦争、学校や家庭からの逸脱としての不良や校内暴力は問題視されても、それは学校や家庭の枠の中でのふるまいの問題とされ、彼らがいかなる現実を生きているかまで、行政も学問もメディアも、迫れていなかったのではないか。あるいは、実際現場での問題意識が、社会全体まで広まらなかったのかもしれない。
正直データも見ていないので下種の勘繰りでしかないのはご指摘の通りだが、実際問題として、戦後だろうが何だろうが、学齢期の子供を持つ家庭の相対的貧困率が、劇的な変化を遂げたとはあまり考えにくい。子どもの貧困はただ潜在化したのみで、むしろあるべき子ども論=子供をいかに教育するか、されるべきか、という点のみが先行してしまって、そもそも子どもがいかに生きているか、その環境が顧みられてこなかっただけではないのか。何となく、「途上国に井戸を作ったら、井戸が分解されて使われることはなかった」という逸話を思い出す。これは、モノさえ与えればよくなる、という短絡的な発想で、メンテナンスや生活環境、実態の利得計算等をちゃんと考えられていないゆえの悲劇(喜劇?)だが、子どもについても、「学校なり家庭なりでちゃんと教育指導すれば誰でも良い大学に行って良い会社に行ける」という、きわめて短絡的なストーリーが信奉されていたのではないか。個人個人の特性や性格、家庭や地域の環境要因や文脈を考慮していない、子どもを「子ども」というカテゴリだけで見て、そのカテゴリに理想を押し付けるだけの時代だったんじゃないだろうか。
これについては、1980年代の子どものいじめや校内暴力、不良の華やかなりし頃の学術研究とかでなんか実のある話もありそうなもんだが、ただ個人的な知見もない。
そして、2000年代まで潜在化してしまった子供の貧困問題は、リーマンショックに伴う経済危機とともに、一気に顕在化する。実際のところ、子どもの貧困は、2014年の子どもの貧困対策法等の取り組みがおそらく奏功しており、一時は7人に一人といわれた子供の貧困割合は、10人に一人程度までは減少したようだ。十分というつもりは微塵もないが、マシになっているのも認めるべきだろう。
ただ、子どもの貧困の顕在化のトラウマは、今でも日本社会に鋭い爪跡を残していると思う。本書を読んで得た気づきは、少子化もその結果ではないか、ということだ。
過去の分析で示した通り、2005~2015年で一時的に増加した出生率は、2016年以降、再度下落を始めている。直接的な要因は、婚姻率ではなく有配偶出生率の低下のようだが、社会背景的な要因として、「子どもを豊かに育て上げることの困難さ」を意識するようになったから、というのはあり得ないだろうか。
これまた過去少し示したが、個人的には、金銭的な問題が、最近の少子化に直接影響したとはあまり考えていない。というより、それは昔からの問題であり、今になって表れたことではないし、子どもの数で所得が変わる感じもあまりない。
ただ、子どもが家庭や学校で勝手に育つと思われていた(少なくとも、子どもが育つリアルな過程が細やかにとらえられていなかった可能性がある)2000年代前半までと、「子どもの貧困」が重大な社会問題として俎上にあげられたそれ以降では、子どもを産み育てる責任感等に、何らかの違いが生まれた可能性はある。この辺りは世論調査で長期データがあるかも、という気もするのだが、生活定点やNHKの調査では実態がよくわからなさそうだ。ただ、子どもの貧困問題を契機に、親としては、ただ子ども(あるいは学校)に、理想の教育を押し付けるだけの時代は終わり、より細やかなケア――学校外教育や家庭での指導、対話、その他生活上の十分な支援が求められるようになり、それが子育てへの心理的なハードルを引き上げたというのは、あながち無理筋の想定ではない気がする。
言い換えれば、子育てのコストは、経済的というより心理的に上がったのではないか。中卒から高卒、高卒から大卒と、子どもが経済的な「重荷」である期間は長期化していっており、長期的なスパンでは、経済的コストも実際上昇しているのだが、個別家庭の教育の経済的コスト自体は、社会としてはあまり重視されてこなかった。1970年代以降、子どもの絶対的貧困問題は「解決」され、子どもはこれからの社会を担う逸材、理想の社会を築いていく若者としてのみ注目され、その問題は、せいぜいが校内暴力といじめと不良、「切れる17歳」という枠の中で指摘されるだけだった。そしてそうした問題たちは、基本的には家庭や学校での指導の問題の中で片付けられ、それらの中で解決すべき問題と矮小化されていたのではないか。少子化の波も、子どもがあくまで家庭と学校という世界の中でしか注目されない存在だったからこそ、あまり問題視されなかったのかもしれない。少なくとも教師でも親でもない人たちは、実際に子どもを産むか教師になるまでは、子どもの問題に向き合う必要がなかった。
しかし、2000年代後半から、子どもの貧困問題(そして深刻化する少子化問題)で、子どもの問題は、より広い経済社会的問題と結びつけられ、学校や家庭だけでなく、社会全体の問題とされるようになった。親でも教師でもない人々が、少子化を含む子どもの問題に、何らかの形で問題意識を持つことを求められた。そして同時に、その解決の難しさに社会は呆然とし、子どもという存在からそもそも、一定の距離を置いてしまうようになった人々が現れたのではないか。少なくとも、子どもを持つという選択において、「子どもを貧困に陥らせてはならない」という制約が課されるようになり(制約が厳しくなり)、結果そもそもそうしたプレッシャー自体を忌避する人が増加したのは、子どもの貧困問題の現出以降なんだろうとは思う。その社会的な「立ちすくみ」こそが、2015年以降の出生率の低下(あるいは反出生主義的思想)の一因、なのかもしれない。
いつも通り後半は、この本とほぼ関係ない話になってしまったが、貧困という切り口から、子どもの社会的な位置づけがいかに変わってきたかを、データに基づき鮮明に描き出しているという点で、希少かつ極めて有意義な本であると思う。