趣味のマンガ002_竜と勇者と配達人(グレゴリウス山田)
だいぶ久々の漫画ネタ。しかも取っ掛かりの漫画も古い。「竜と勇者と配達人」という、2016年から2023年まで、となりのヤングジャンプ(とか)に掲載されていた、中世ファンタジー(風)の漫画。全9巻+作者の自費出版が1冊あって、全部10巻。とりあえずめっちゃ面白いから、すぐ買ってほしい。
これ自体はだいぶ前から読んでいたので、今更感想文というわけでもないのだが、久々に読み直して、やっぱめっちゃ面白いし、ちょっと書いてみたいことも出来たので、駄文を書き散らしてみたいと思う。
とりあえず、マンガの紹介をちゃっとやっておくと、舞台はルネサンス以前くらいの中世をイメージしたファンタジー世界。剣と魔法、勇者とドラゴン、スライム、オーク、トレント、ヒヤシンスにオオアリクイといった香ばしい魔物たちやレベルシステムと各種ジョブ等、一通りのドラクエ的ナーロッパ的要素を揃えている。正直絵はあまり上手くない方なのだが、このシリーズの表紙とか、あとはこのシリーズではないのだけど同じ著者の「13世紀のハローワーク」とかは、FFタクティクスとか、聖剣伝説レジェンドオブマナ(のアーティファクト)とか、そういう感じの、ちょっと可愛めデフォルトのテラリウム的デザインにあふれていて、要するにとても良い。
内容的には、主人公がタイトルにもある「配達人」という、英雄でもなんでもない一般人というのがひとつ特徴。もちろん勇者でも魔王でもない一般人が主人公――というか、魔王とかと戦うんじゃなくて、生活史的な描写がメインの中世ファンタジーは、「異世界居酒屋のぶ」とか「狼と香辛料」とかいっぱいあるけど、本書はリアリティというか、生活感のバランスが絶妙。
上述の通りあくまでファンタジーなので、「アルテ」「イノサン」「ヴィンランド・サガ」みたいに、ある程度史実を参考に、あるいは史実に沿って描いたものとは違う。しかし、作者の海よりも深く山よりも高い中世ヨーロッパ(の武具鎧等)への愛と造詣が、ファンタジー中世マンガなのにもかかわらず、現実の中世もこうだったんだろうなぁという、圧倒的世知辛さと人間臭さと不条理と義理と甲斐性に満ちた、滋味溢れる世界にしてくれている。まさしく阿部謹也の描く中世ドイツそのものである(※私は阿部謹也を一切読んだことがありません)。あるいは柳田文雄の描く「常民」の生き様、網野善彦の「無縁・苦界・楽」の世界かもしれない。
さて、本書の面白さはもっともっと語れるのだが、すでに長くなりすぎているのでさっさと本題に移ろう。本書のメインストーリーは、「属人性」と「代替性」の戦いである。
本書はファンタジー世界で、レベルの概念もあるのだが、設定上、レベル40代以上くらいから、「凡人にはたどり着けない」「選ばれし者のみが到達する境地」という扱いになっている。そしてそうした戦士は、レベル10の一般人が束になっても敵わない、という設定になっている。他方、レベル40の戦士=英傑も、レベル25の戦士(努力した一般人なら到達できるレベル)で囲めばなんとかなる。
しかし、更にレベルが高い魔法使いは、才覚に溢れたレベル40が複数人でも到底敵わない、まさに「神話級」の力を誇る。そしてそうした人々は、概ね傍若無人で我儘で、要するに凡百を蹂躙し君臨することに躊躇がない。
そうした属人性、個人の才覚と性格がすべてを決める、限られた天才が大衆を支配するという思想(本書では魔法使い)と、安価で代替性の高い人材によって、大衆が大衆のまま成立する、属人性を排除した社会を築こうとする思想(本書では一般都市統治者)の衝突が、話の縦糸となっている。
実際、例えばワンパンマンのS級ヒーローなんぞ、ヒーロー協会が御せるわけがないと思うし、呪術協会の特級呪術師は、定義として「単独での国家転覆が可能な人物」である。
こんなやつが存在する世界で、まともな社会が育つのだろうか?悪魔の実を食べ覇気を使いこなす人物に対し、一般人が全面服従する以外の選択肢はあるのだろうか?
文字通りの一騎当千、1人で1000人と殺し合いができるということは、一人で1000人――中世ヨーロッパなら、小さな都市と呼べるサイズ――を、武力(死)で支配できるということだ。そこにはカリスマ性も統治能力も、端的には必要ない。いくら仲間を糾合し団結しても、クーデターの成功確率はゼロである。
もちろん、設定次第の面もある。殴り合いでは一騎当千=英傑級でも、毒や飢えへの耐性はあるのか。真正面からは戦えなくても、闇討ちすればなんとかなるのか。アキレスの踵が何等かあるなら、そこに付け入る余地はあるだろう。
他にも以下のような設定の差異が考えられる。
・英傑は100人に一人なのか、1000人に一人なのか、どれくらいレアなのか。
・英傑の能力にバリエーションはあるのか、同じベクトルなのか(戦士と魔法使いとモンクと僧侶と盗賊と魔物使いと…)。相互に相性はあるのか。
・英傑になるかは、先天的なのか、後天的なのか。血統は影響するのか。
・英傑の力が及ぶ範囲は、人間身体的な距離に制約されるのか、それを超えた範囲まで及ぶのか(支配領域はどれくらいか)。
・武力(死)を用いるコストはどれくらいか。無制限に力を振るえるのか、一晩寝ればMPは回復するのか。
ただ、どんな設定にせよ、こうした英傑の存在は、「相互に信頼の置ける集団形成(家族や血縁を超えた集団の形成)」「そうした集団が生み出す技術(灌漑や開墾、ある程度規模の大きい冶金等)」「集団の相互関係による商業や文化の交流(貿易)」といった諸要素が誕生する余地を、大きく削減するのではないか。少なくとも、「英傑が直接支配・認識できる規模」までは集団は成長しうるが、それ以上の規模に成長する余地は大きく削減されるだろう。
そう考える理由のひとつは、集団内のパワーバランスを維持する調停者がいないからだ。バランスは、英傑がどう振る舞うかの一点に完結する。英傑の気分で生死が決まり、そこに反逆の可能性すら認められないなら、それはほとんど収容所群島の世界だ。そこには創造性やイノベーションが生まれる余地が極めて小さいし、英傑以外の連携が促進されるモチベーションがそもそもない。
また、仮にその英傑が博愛心に満ちた人間なら、逆に「そいつが全部やればいいんじゃないかな」状態になるんじゃないかと思う。単独で山を削り川の流れを変える力があるなら、灌漑のために民衆を指揮し、統率する必要はないし、民衆側もそいつに従うために生活をともにし、規律化される必要がなくなる。
…と、少々好き勝手書いたが、正直あんまり詰めて考えられていない。ともあれ、実際にこういう英傑がいた場合に、どこまでどういう社会が生まれるかは、色々妄想のしがいがあるトピックだと思う。ただ、英傑のいる社会が、現代社会と似た価値観や発展段階を持つ、というのは、すんごい甘い考えだと思う。ていうか、こういう観点を考えずに、ファンタジー政治描写されると、「ああ、ファンタジーだな」と思って結構萎えるんだよな。ファンタジーバトルはファンタジーでいいんだけどさ。政治はファンタジーじゃないんだよ。政治がファンタジーの世界は、そもそも生きてる人間がもはや我々とは見えてる世界も価値観も違う――相対主義的な意味ではなく、石と虫とプラスティックを材料にした料理マンガ的な、ガチの異世界の話に感じられるんだよな。
さて、「英傑がいた場合に社会がどうなるのか」という疑問にちょっと近いイメージなのは、進撃の巨人の、古代エルディアの時代である。ユミルの孫?の世代から、9人の巨人(正確には、王家を除く8人の巨人たち)がお互いの力を巡り、殺し合っていたことが示唆されている。物語中では、この権力闘争(物理)の詳細は描かれておらず、最終的には内部工作等によって崩壊したことが描かれている。本稿の話題に引き付ければ、この時代は、8人の英傑たちが争い合う中で、どのように社会が変化していくか、という時代、ということになる。物語上は、この時代の詳細は描かれず、ユミルの奴隷制を持つ遊牧民的な世界観(バイキングの世界?)から、近代の列車や飛行機を持つ世界(第一次世界大戦前くらい?)まで一気に飛んでおり、8人の超越的英雄が生きる世界からでも、産業革命を生むような世界まで到達したことになっている。
8人の巨人たちは13年しか寿命がなく、能力は血統では引き継がれず(原則)ランダムに発現、飢えや毒に耐性があるわけでもないので、結構弱点が多い部類ではないかと思う。さすおにみたいなやつだとちょっと話を作れないが、これくらいの「弱点」があるなら、8人の巨人(の一人)となって、英傑たちが社会をいかに構築しうるかのシミュレーションゲームとかできる気もする。なんかそういうシミュレーションゲーム、ないもんかな。それか、そういうのをリアルに描いたマンガとか。
結局真正面からそういうのをテーマにした作品、竜と勇者と配達人しか知らないんだよな、今。