第20回 女三宮の悲劇
寛和2(986)年6月23日、はっきり言って騙しで花山天皇(19歳)を退位させ、外孫の東宮懐仁親王(7歳)を強引に即位させた兼家(58歳)の権力への執念は凄まじいものがありました。
6月24日に自らが摂政になると、7月5日に、中宮争いで敗れた我が娘詮子(25歳)を皇太后につけました。まるで『源氏物語』の藤壺中宮に敗れた弘徽殿の女御が皇太后になったのと同じです。また長男道隆(34歳)を権中納言、20日には権大納言とごぼう抜きで昇進させました。道兼(26歳)も権中納言、そして全くの若造であった道長(21歳)も翌年には従三位に叙せられます。
7月16日にはもう一人の外孫・居貞(いやさだ・おきさだ)親王(11歳:冷泉天皇の第二皇子、母は兼家の長女で亡き超子)を東宮につけます。次代の政権も確保できた訳です。
そして正確な日にちは分からないのですが、高貴な身分の正室がいなかった兼家は亡き村上天皇の第三皇女(女三宮)保子(やすこ)内親王(38歳)が独身なのに目をつけて自身に降嫁させます。まるで『源氏物語』「若菜」の女三宮が光源氏に降嫁する場面と似てます。あれは女三宮の父・朱雀院の希望でしたが。
しかしいきなり58の男の妻となるのはどうだったでしょう。更に我儘な兼家は「思ったよりつまらない女だった」という事で通わなくなり(『栄花物語』)、いろいろと悲観した内親王は翌年8月21日、結婚1年ほどで39歳で亡くなってしまいます。
『源氏物語』ではなぜ一宮でも二宮でもなく「女三宮」だったのか?人々の脳裏にこの「女三宮」の悲劇が残っていた事を紫式部は思っていたのではないでしょうか?(続く)