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第31回 定子崩御

長保2(1000)年春、肥前から伯母一家が戻ってきました。従姉の小夜姫(『源氏物語誕生』での名)は亡くなっていましたが、その遺児で幼い峰姫(同設定)も帰京し、香子は小夜姫の生き返りだと思った事でしょう。後年、『源氏物語』で肥前に行っていた夕顔の遺児玉鬘が帰京して来るというモチーフになったのではないでしょうか?(勝手な推理笑)

さて、京では、道長は愛娘彰子を后の位に何とかあげようとして、藤原行成の助言もあって、中宮定子を皇后に、そして女御だった彰子を中宮とします。一帝二后の始まりです。
しかしこれはかつて定子の父道隆が策を講じて、円融天皇の中宮だった遵子を皇后とし、娘定子を中宮に押し上げたのが始まりでした。中宮は皇后の別称だったのを逆手に取ったのです。今度は弟道長にそれをされたのです。
しかし遵子と定子の場合は夫の天皇が違う訳ですが、今回は全く同じだったので強引というほかないでしょう。

一条天皇と彰子の関係ですが、当時21歳と13歳。大人と子供みたいな感じですがこんなエピソードが残っています。一条天皇は笛が得意で、彰子の部屋に行って吹いていました。彰子がずっと向こうを向いているので、天皇が「こっちをご覧」と言うと彰子は「笛は聴くもので見るものではございませんわ」と言ったとか。天皇は苦笑していたといいます。

やはり一条天皇の愛は定子に専ら向けられていて、その年3月定子は3度目の懐妊が分かります。ちょうど『枕草子」では翁丸という犬が一条天皇が可愛がっている猫を脅かしたとかで罰を受けましたが戻ってきたという話が載っています。
定子は前と同様、平生昌の邸に行啓しますが2度ほど今内裏である一条院に戻っています。8月8日、生昌の邸から入内し、27日にはまた生昌の邸に行啓しています。しかしこれが一条天皇と定子との今生の別れとなりました。

12月15日、定子は第二皇女媄子内親王を産みますが、産後の肥立ちが悪く16日に崩御してしまうのです。以下はWikipedeiaoよりの引用です。
まずは死期を悟った定子の3首。

・夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき(後拾遺536)

【通釈】一晩中契(ちぎ)りを交わしたことをお忘れでないなら、私の死んだ後、あなたが恋しがって流す涙の色がどんなでしょう。それが知りたいのです。
・知る人もなき別れ路に今はとて心ぼそくも急ぎたつかな(後拾遺537)

【通釈】誰一人知る人もいない死出の別れ路に、今はもうその時と、心細いままで急ぎ発つのですねえ。
・煙とも雲ともならぬ身なれども草葉の露をそれとながめよ(後拾遺異本)

【通釈】火葬はされないので煙とも雲ともならない我が身ですけれども、草葉の露を我が化身と思って眺めて下さい。

この3首を知った一条天皇が定子葬送の時、雪が降っているのを見て詠んだ歌
・野辺までに心ひとつはかよへども我がみゆきとは知らずやあるらむ(後拾遺543)

【通釈】葬送の野まで、心だけは往くのだけれども、私が付き添っていて、その思いが雪となって降りかかるのだと、亡き皇后は気づかずにいるだろうか。

一条天皇21歳、定子24歳。入内してから丸10年の結婚生活でした。尚、当時は座って産むので妊婦の負担が大きかった様ですが、一説では座ったまま亡くなった定子を、1つ上の兄伊周が抱きしめて号泣したという事です。人々は定子の崩御と中関白家の悲劇を悲しむのでした。

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