記憶が失われても感情は残る~アルツハイマー型認知症患者のケアにおいて知っておくべき一つの研究~

感情を体感することと、その感情を引き起こすであろう記憶というものは、なんとなく不可分な印象があります。悲しみ、苦しみ、嬉しさ、幸せ、いろいろな感情は、その感情を駆動するそれぞれの記憶に存する、と考えて大きな違和感はありません。大切な人と別れて悲しい、というような感情は、その人との大切な記憶が確かに存在するから、と言えるでしょう。

では、悲しみという情動を誘導するような記憶を消去すれば、悲しみも消えるのでしょうか。

その答えに対して近年の研究は否定的です。つまり感情を体感することは、感情を引き起こすような宣言的記憶とは独立して存続することができる可能性が指摘されているのです。

宣言的記憶(陳述記憶)とは人間の記憶の一種で、事実と経験を保持するもののことを言います。つまり言葉で表現できるような記憶のことですね。一方で非宣言的記憶とは自転車の乗り方を覚えるとか、ピアノの弾き方を覚えるというような言葉で表現できない記憶と言っても良いでしょう。端的に言えば「体で覚える」記憶のことです。

記憶を司る脳の海馬という組織に重度の障害がある患者を対象とした研究によれば、宣言的記憶が保持されていなくても、幸福や悲しみの感情を体感することができる可能性が示されています。
Proc Natl Acad Sci U S A. 2010 Apr 27;107(17):7674-9.PMID: 20385824

(図1)白矢印の先にある部分が海馬。左が健常者。右の患者では海馬が萎縮しているのが分かる。(Proc Natl Acad Sci U S A. 2010 Apr 27; 107(17): 7674–7679.より引用)

さて、記憶を喪失していく疾患の代表的なものは認知症でしょう。認知症の中でもアルツハイマー型認知症は海馬に伴う進行性の宣言的記憶障害と言うことができます。つまり、アルツハイマー型認知症患者では、海馬に重度障害を有する記憶喪失患者と同様に、新規情報の取得および記憶が困難であると考えられます。

このようにアルツハイマー型認知症患者では宣言的記憶を保持することは難しいかもしれません。感情そのものを体感できるかどうかについては、どうなのでしょうか。アルツハイマー病患者と同年齢の健常者を比較して、感情の原因となった宣言的記憶が失われた後でさえも、感情を体感する能力が維持されているかどうかを検討した研究が、2014年に報告されています。

Guzmán-Vélez E.et.al. Feelings without memory in Alzheimer disease. Cogn Behav Neurol. 2014 Sep;27(3):117-29. PMID: 25237742

今回の記事では感情は記憶と独立して存在しうるのか、このアルツハイマー型認知症患者を対象とした研究データを参照しながら考察していきたいと思います。

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