こちらは、ようやく見つけたフーコーの後期のパレーシアに関する講義の文献です。
本書によると、パレーシアが初めて登場するのはエウリピデスの悲劇において、紀元前五世紀末にはギリシアの世界では使われていたとされています。
パレーシア 名詞(素直に語る)
パレーシアゾマイ、パレーシアゼスタイ 動詞
パレーシアステース 名詞(真理を語る人)
レトリック(弁論術)を使わずに、みずからの意見を明確かつ明瞭に、直接的に語る。つまりパレーシアを行う者の「発話行為」は、「わたしはこう考える者である」という形をとるとのことです。
パレーシアは自己批判か他者批判かを問わず、批判する機能を果たす。パレーシアは低いところから高いところへ向かって語られる。そして、自由と義務にむすびついているとフーコーは述べています。
①パレーシアとレトリックの関係(自然な文彩)
レトリックと対立する。レトリックの零度。
②パレーシアと政治の関係(アテナイの民主性)
アテナイの政治制度では、民主制(デーモクラティア)、発言の平等な権利(イセゴーリア)、権力の行使におけるすべての市民の平等な参加(イソノミア)、真理を語る権利(パレーシア)が享受できたとされる。
※市場(アゴラ)の集まりで議論や討議がされていた。また、教養と知識(マテーシス)を必要とする(魂の教育?)。そして、法律(ノモス)と真理の関係など(諸力間のゲーム)。
③パレーシアと哲学(生〔ビオス〕の技術〔テクネー〕 、自己の配慮〔エピメレイア〕 )
アテナイを支配するには、まず自分への配慮を学ばなければならない(対外的には自己告発している?)。たがいに教えあい、助け合うための実践について語ったもの。禁欲(アセテイスム)、教養(マテーシス)鍛錬(アスケーシス)よって学ぶ必要があるとのことです。
上記の引用は、何度かフーコー関連の文献で見たことがありますが、本書からの引用だったのですね。文献が見つかってほんとよかったです。
自己との間で自己愛(フィラウティア)の関係を結ぶこと。自己愛によって自己への幻想につながってしまう(自分がなにであるか、だれであるか認識できない、自己欺瞞へつながる)。アウグスティヌスも自己愛について語っていたとのことだし、自己愛は古くから議論されたテーマかもしれません。話は、自己欺瞞から、自己と真理の関係、自己と理性的な原則を吟味する〈自己の技術〉へと移ります。
以下、本書の中からのセレヌスの自己の記述になります。
※元はセネカ「心の平静について」東海大学出版会 pp.303-304 からの引用です(孫引きでごめんなさい)。
本書の考察は、自己の吟味と道徳からの要請へと進み結論へと進みます。
このように、本書ではパレーシアの講義とともに、フーコーの〈問題構成〉の方法論が示され
実際に使われています。このこと自体が〈自己の技術〉の実践であると考えられます。そして、以下の言葉で結論を終えています。
(終わり)
参考文献
ミシェル・フーコー(2002)真理とディスクール パレーシア講義,筑摩書房.