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キヴィラフク『蛇の言葉を話した男』と『ノベンバー』を読む
なんという失態だ。
このような映画を見逃してしまうとは。
2022年に日本公開されたエストニアの映画で、シネマ・クレールのポスターで見かけた映画だったが、予告も見ずにスルーしてしまった。
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こんな感じのポスターで、なんとなくヨーロッパの白黒アートフィルムか……と思って、敬遠してしまった。
去年の大晦日に、あらすじを読んでファンタジーなの?と思って、でも期待せずに再生したら、冒頭から一撃を喰らうことに。
わかるだろうか。地味なヒューマンドラマだと思っていたら、宮崎駿だったというこの衝撃が。
あるいは、ちょっとわかりにくい例えになるが、ヤン・シュワンクマイエルとか、ギレルモ・デル・トロの感じ、おとぎ話の系譜です。
いきなり、“クラット”と呼ばれる、体が農具でできた使い魔が登場して、牛を盗んでいくシーンで始まりるので、ヒューマンドラマとかではないのがすぐにわかり、あとは、フェアリーテイルでフォークロアな世界にどっぷり浸かるだけだった。
映像こそ、タルコフスキーやタル・ベーラのような東欧の映像作家、『神々のたそがれ』『マルケータ・ラザロヴァー』のような、絵画的なモノクロ映像で、非常にかっこいいのですが、中身は宮崎駿だと思っていい。
エストニアの農村が舞台で、村人の中に悪魔と契約して使い魔を使役することができる者がおり、死者の日には、亡くなった家族と一日だけ会えたりする、摩訶不思議な世界。
物語の中心人物は、村娘で人狼のリーナと、村で唯一の青年であるハンス、そしてドイツからやってきて城に住んでいる、男爵の娘の三人。
人狼リーナはハンスを自分のものにしたい。しかしハンスは男爵の娘に惚れている。三角関係というわけだ。
リーナは村の女たちから、投げれば必中し、脳天をかち割る呪いの矢を授かり、恋敵である男爵の娘を殺してしまおうとする。
ハンスは、男爵家の娘を口説くために、悪魔と契約し、雪だるまのクラットを呼び出し、恋の秘技を教わろうとする。
しかしリーナはハンスが悲しむのを恐れ、男爵の娘を殺せず、その代わり金品と交換で手に入れたドレスで、男爵の娘を装ってハンスの前に現れる。
それに目を奪われたハンスは、リーナの前にしゃがんで一夜じゅう、会話もせずにただ見つめ合う。
ハンスのクラットはその美しい光景に感動し、リーナを追いかけるように助言し、溶けてなくなってしまう。
立ち去っていくリーナをハンスは追いかけるが、悪魔がハンスの命を取り上げにやってくる……。
あらすじは、ぼくが観た感じではこんな風かなと思うのですが、説明描写を排除していて、あらすじに描かれた以外の場面も謎めいていて、ぶっちゃけよくわからない。
いちばんのお気に入りのシーンは、ハンスが呼び出したクラットが雪だるまの形をしていて、その雪だるまが喋るシーンだ。
ありとあらゆる大陸の川や海を流れ、世界中を旅した水でできているその雪だるまは、どんなことでも知っている。
最後はまあお約束で、溶けてなくなっちゃうのだが、いちばん好きなキャラだ。
大満足したぼくは早速、原作者について調べ、キヴィラフクの名前にたどりつく。
キヴィラフクは本国エストニアでは国民的なファンタジー作家で、『ノベンバー』
の原作も大ベストセラーだという。
しかし邦訳されたキヴィラフクの小説は『蛇の言葉を話した男』のみで、ぼくはさっそくそれを購入して読むことになった。
2007年の小説だが、まずフランスの目利きの出版社が翻訳し、日本語版はフランス語からの重訳で、2021年に出版される。
帯ではこんなふうに紹介されている。
トールキン、ベケット、トウェイン、宮崎駿が世界の終わりに一緒に酒を呑みながら、最後の焚き火を囲んで語っている、そんな話さ。
フランスで、イマジネール賞をケン・リュウ、ニール・ゲイマン、ケリー・リンク等に続き受賞、『モヒカン族の最後』と『百年の孤独』を『バトル・ロワイヤル』な語りで想像したエストニア発エピックファンタジー大作!
怒涛の固有名詞の連続で、なるほどぼくの好きそうな名前だ。
ページ数は350ページほどだが、上下二段組になっていてまあまあの分量。しかし、リーダビリティの高い文章ですらすら読めてしまうので、それほど畏れる必要はない。
ベケットだとか『百年の孤独』だとか書いてはあるが、エンターテイメント巨編なので、小難しいところはなかったです。
『ノベンバー』と同じく、中世らしき時代のエストニアが舞台で、古代から森に住んでいる伝統的なエストニア人の少年、レーメットが主人公。
レーメットは叔父から蛇の言葉を受け継ぐことになり、蛇の言葉をしゃべれば森の動物を意のままに従わせることができ、呼ぶだけで鹿がやってきて肉を手に入れられるし、狼から乳を絞ることもできる。
(しかしハリネズミは最も愚かな生き物なので、蛇の言葉が通用しない。あと虫も)
そんな森の外には、“鉄の男たち”と呼ばれるドイツからやってきた騎士たちがいて、彼らが持ち込んだキリスト教が勢力を拡大しつつある。
エストニア人のなかにも、森を抜け出して、村で小麦を作って生活をする者たちが現れ始める。
そしてもちろん蛇と言えば、キリスト教でイヴをそそのかして知恵の実を食べさせた邪悪な生き物で、古代の宗教とキリスト教という対立の構図が見える。
レーメットはこの森と村、古代と近代のはざまを行ったり来たりすることになり、作中でよく“〇〇を〇〇した最後の人間”と呼ばれることになり、時代のちょうど節目を生きることになってしまった少年というわけなのだ。
これだけ聞くと、森の生活=伝統的、精神的に豊かで素晴らしい。村の生活=近代的で物質主義、便利さのために魂を犠牲にしている。といった安直なテーマを繰り返す作品と思われるかもしれない。
しかし本作が巧みなのは、こうした構図を徹底的に避けて描いたことで、実際、作中でもっとも邪悪なキャラクターは、森の賢人ウルガスだ。
ウルガスは精霊の存在を信じており、ことあるごとに生贄を捧げようとする男で、迷信に取り憑かれた蒙昧な人間として描かれる。
そしてそうした批判はウルガスだけではなく、キリスト教徒にも同じように向けられる。レーメットから見れば、ウルガスと同じような迷信を信じている連中として描かれる。
森にはさらに、ヒーエという女の子が、頑なに伝統に固執する父親のもとで、ほぼ監禁状態で過ごしていたりして、それだけでも森での生活、古き良き生活なるものが、いかにグロテスクかわかるというものだろう。
レーメットが森の聖なる木を切り倒す場面では、斧を入れたら木がすでに腐っていていて、あっさり倒れてしまうという象徴的なシーンまである。
そしてこのグロテスクな価値観は、キリスト教がやってきた近代以降の世界においても幅を利かせているという、どうしようもない歴史が本作で語られる。
人間はちっとも進歩なんかしていないのだ!
もうひとつ、大事な要素があって、これはフランス語版の解説に書かれているのですが、エストニアという国は、自国の言葉を外国から守ることによって、民族のアイデンティティを守ってきた国だそうで、そうなれば“蛇の言葉”を話せるものが消えていってしまうという本作のストーリーは、ずっと風刺的で切実な意味を持っている。
言葉とは一つの文化であって、蛇の言葉の消滅と共に、本書の世界も消滅するのだ。
かつて古代エストニアの戦士たちと共に戦ったと言われる、森ほどもあって飛翔する巨大な蛇、サラマンドルや、好色で人間の女の子たちを誘惑するバカな熊たち、選抜育種で巨大ノミを生成する猿、蛇の王族に、人骨で翼を作って毒牙で襲いかかるじいちゃん。
これら奇抜としかいえないヘンテコな者たちが、たくさん登場する世界なのですが、ラストシーンではついにサラマンドルの棲み家を見つけたレーメットが、その美しく偉大な生き物とともに無くなっていく運命を受け入れるしかないという、とびきり悲しく切ないシーンで幕を閉じる。
古きものが消え去っていく哀切な無常感というのが、グッとくる読みどころ。
本書のような世界観はもちろん、『ノベンバー』にも存在して、中世が舞台でドイツ人の侵略者がいるところとか、森の保守的な掟があるところかが共通している。
いずれにしても、おとぎ話の精神を見事に具現化した作品で、作者のぶっ飛んでいてかつユーモラスな想像力と、人間や文明に対する鋭く知的な洞察が混然となった、ここ最近ではいちばん心動かされた物語と作者でした。
他の作品も翻訳されたり、映像化されたりすればいいんだけど、どうなんだろうねぇ…。