『ペルシャン・レッスン 戦場の教室』 歴史と対峙するときどうするのか
あらすじが面白い。
ナチスに捕まったユダヤ人ジルが、助かりたい一心で、「自分はペルシャ人だ」と嘘をつく。収容所では偶然、ペルシャ語を習いたかった親衛隊のコッホ大尉がおり、一言もペルシャ語なんて知らないのに、教えるハメになる。
ペルシャ語を知らないので、デタラメな言葉を作っては、それっぽく教える。そうして、ピンチを凌ぐジル。
コメディ映画にもできそうなのですが、(というかそれを期待していた)実際は手堅い収容所映画となっていました。
その手堅さとは、例えばコッホ大尉の造形にある。
ジルが作る架空のデタラメ言語を健気に覚えていく、親衛隊のコッホ大尉の人物造形は、残虐な親衛隊員という表層に対し、平凡な庶民性を裏に隠している。
割といいやつなのだ。
なので、ラストシーンでコッホ大尉が空港で捕まるシーンも、ナチス成敗なカタルシスというものはない。
この映画はバランスがいい。良いので地味。
そしてさらに、主人公ジルの立ち位置である。
ジルは傍観者だ。傍観者の視点でこの映画は進む。
ペルシャ語(ではないけど)をコッホ大尉に教えるため、ジルは他の囚人から区別され優遇される。バレない限り殺されることはなく、食べ物ももらえる。
しかし収容所の仲間がひどい目にあっても、見ていることしかできない。
ならばこの地味な映画の勘所とは何か。
ジルは架空のペルシャ語を作って覚えるために、収容所の仲間たちの名前を利用する。名前から連想して言葉を作り、膨大な単語を記憶する。
連合軍に保護された時に、その時作った単語との連想を使って、収容所で犠牲になった者たちの名前を読み上げていく。ジルは証言する。
歴史というものに直面したとき、私たちはどうするべきなのか。歴史の中でわたしたちはあらゆる行動が取れる。しかしどうすることもできない。歴史という大きな流れを変えることはできないからだ。
ならば全ての行いは無意味なのか。わたしたちができる唯一の歴史への抵抗は、語り継ぐ事だけだろうと思う。
平凡な決着かもしれないが、涙を流しながら、仲間たちの名前を読み上げていくジルの姿は、わたしたちに静かなカタルシスをもたらす。
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