長い人生の2時間50分くらい映画を観るのに使おうぜ。『ラストエンペラー』感想。
12ヶ月のシネマリレー…ということで、ベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストエンペラー』を観に行きました。
最近、ラストエンペラーの使っていた腕時計がオークションに出品され、ニュースになっていましたね。タイムリーな鑑賞…なのか?
しかし、絶妙なラインナップですね。
マイナーでマニアックなチョイス。
本作は坂本龍一が音楽を担当。なおかつ俳優として出演している映画で、追悼上映となっています。
劇中の音楽は、映像を凌いで主張するような躍動感がありました。
YMOの初期がそうであるように、東洋趣味的な情緒も感じられて良かったです。
映像の光と影
『ラストエンペラー』といえば、冒頭の紫禁城のシーン。
突出した美しい映像で有名ですが、それは豪華絢爛ゆえに印象に残るのではない。栄華を極めた帝国の影、末期の退廃を感じさせるからだ。
明暗が一体となった映像は、それがそのままこの映画の性格を決定づけているようです。
紫禁城に象徴されるまばゆい色使いは、皇帝という冠、溥儀自身の本質をおおう装飾なのだ。
囚人として全てを剥ぎ取られたとき、本当の溥儀という人間が明らかになる。
檻房の中には灰色しかなく、いかなる装飾もない。
劇中の台詞が中国語ではなく英語なのも、映画が終わるまで気になりませんでした。映像が圧倒します。
本物の紫禁城で撮影をしているという迫真性も加味して、有無を言わせない完成度になっていると思います。
何も支配することがきない皇帝
ストーリー、主人公について思ったこと。
溥儀にとって紫禁城は巨大な子宮のようで、彼を傷つける者はだれもいない。どんなことでも望めば叶う。
しかしそれは紫禁城という自らの庭のなかでの話である。
「扉をあけろ」と命じても、溥儀は自身のものであるはずの紫禁城の門を開けることができない。
選ばれた相手と結婚し、紫禁城を出たいと願いながら、他人の手によって紫禁城を追い出される。
第二婦人は溥儀のもとを勝手に去り、それに対して溥儀は皿を割り、物に当たり散らし、激昂する。
皇帝として生まれながら、何者も支配することができない。
溥儀は満洲国の皇帝の地位を与えられるも、それは単なる飾りで、実際は日本政府の傀儡政権である。ようやく自分自身のものを手に入れたと思っても、それはあてがわれたものだった。
囚人になったときには、看守から「扉を開けろ」と逆に命令され、その時に初めて、自らの手で扉を開けることができるのだ。
溥儀が人生の果てに見出した最後の地位は“庭師”である。
仕える者として、所有物となり支配されることに落ち着くのである。
アイロニーに満ちた結末で映画は終わる。
最後に
なかなか濃厚で満足感の高い映画でした。
詳しくは書きませんでしたが、映画の端々に散りばめられたエロティシズムも、作品に艶を出していて、官能的でうなります。
劇場に腰を据えて、長丁場を集中して観れたのはやっぱ良かったな。