『フェイブルマンズ』 映画は私を癒さない。
見終わったあとに、上映時間が151分なのに気づいた。
100分くらいかと思った。
それだけ、卓越した編集とストーリーの才が結集しており、円熟の監督の技巧は実に手慣れたものでした。
『フェイブルマンズ』では、映画についての情念もそこそこに、スピルバーグ自身の家族についての物語が中心となっていく。
撮影中監督は、自身が再現したセットの中に、思い出の中の家族の姿を見るようで、涙したらしい。役者の前で本当に泣いたという。
それは本人も語る通り、全く奇妙な現場だったろう。
とうに過ぎ去ったと思った年月が、急に実体となって目の前に現れるのだから、狼狽もする。感極まるのも無理ない。
スピルバーグはこの映画で、常に思い出に対して敬意を払う。
映画の中に悪人は登場しない。
(ヒーローもいない。それぞれに欠点を抱えたキャラがいる)
スピルバーグの両親が不仲だったのは有名な話で、さまざまな作品にそれが反映されている。
悪く描かれても仕方がないはずの両親を、人間らしい魅力と過ちの両面から愛を持って描こうとする姿勢には、常に思い出に対する深い敬意が存在する。
監督にとって、それこそ”すべての出来事”が、自分自身を形成するエピソードであり、映画監督として今があるのも、両親とのことや、学校でのことがあったからなのだ。
そんな気分が伺える。
スピルバーグにとっては”欠けがけのない思い出”という言葉が本当なのだ。
映画はノスタルジーに引きずられることなく、決別と再出発でエンディングを迎え、思い出に留まることのない監督の姿がある。
そういう意味では過去を指向する自伝ではなく、監督の今の気分が反映されている映画なのだと思う。
映画を撮っても結局癒されてない
フェイブルマンズでは、創作行為につきまとう重荷も描かれる。
印象的だったのは、サムが作った映画を上映するとき、最初の二つの映画、列車の激突と西部劇は、それを作ったサムと観客の間で喜びを共有できていたのが、それ以降の作品では、観客とサムは正反対の態度を見せることになる。
上映されている映画を喜んで観る観客の中で、サムだけが浮かない顔をする。
戦争映画を見せている時は、おじさんと母の関係が気がかりで、サムは全く楽しそうではない。
キャンプの思い出を家で上映する時もそうだ。
学校のプロムで上映したときも、彼女に振られていて、やはり浮かない顔である。
普通なら、現実で起こった辛い出来事を、映画を作ることで克服していくのが、王道のストーリーかもしれない。
しかし、サムにとっては、それが本質的な癒しにならない。
映画を撮っても、家族の不仲は進行していくし、いじめっ子との友情もない。
苦しみとはそれだ。
癒されないまま、走り続けなければならない呪いだ。