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鈴木清順 生誕100周年記念 『浪漫三部作』 を観る。

鈴木清順の映画を初めて観た。
ということで、生誕100周年記念『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』『夢二』の『浪漫三部作』4Kリマスター版を鑑賞してまいりました。
どれも邦画史上、燦然と輝く名作です。
三作すべてを鑑賞した暇人には、もれなく先着でB2サイズのでっかいポスターがもらえるということで、ばっちりゲットしてきました。
『ツィゴイネルワイゼン』のポスターだったので嬉しかったです。三つ観たなかでは一番好きだったから。

鈴木清順とは何者か。
1923年生まれ、2017年没の映画監督で、1956年の『港の乾杯 勝利をわが手に』で監督デビュー。まず日活でプログラムピクチャーを手がけます。渡される脚本は所詮B級ヤクザ映画といったものばかりで、普通に撮っても面白くない。そこで清順は実験的な手法を試し、難解な映画を撮る監督として知られていきます。しかしそれも、1967年『殺しの烙印』でついに監督を干され、以降10年間、沈黙します。
そして1980年、今までの鬱屈を晴らすかのごとく、監督自身「一切妥協はない」と請け負う『ツィゴイネルワイゼン』を完成させ、完全カムバックを果たす。
というのが大体調べた感じの、監督の経歴です。

リアリズムを無視した演出でも、面白ければ取り入れてしまうという、自由奔放、もといめちゃくちゃな映画作りをする、飄々とした好々爺。無頼派で粋な人という感じです。


夢二

最初に見たのは『夢二』。91年公開で、いきなり三部作の最後の作品から。
画家の竹久夢二が主人公で、夢二が彦乃という病弱な金持ちの令嬢と駆け落ちしようとするも、一向に相手が現れないというところから始まります。

彦乃は胸が悪く、父親の監視が厳しいのでついていけないと電話で話し、夢二は先に駆け落ち先である金沢へ一人で向かいます。
以降、映画は金沢が舞台となり、夢二は巴代という女性と浮気をし、そしてその巴代の亡くなった夫と、夢二はかつて決闘をしたことがあったという事実がわかってくる。
決闘でピストルを外した夢二は、相手の男、脇屋宗吉に勝負を保留にさせられ、「お前が絶頂期のとき、再び撃ちに現れる」という不吉な言葉を残して去ったのでした。

そしてその脇屋を殺した男、“鬼松”が現在逃亡中で、金沢では山狩が行われていた。鬼松は自分の女を寝取った脇屋を、女ごと鎌でぶち殺したのだった。
しかしそんな状況下に、なんと死んだはずの脇屋が生きていて、夢二に「勝負の続きをしようや」と迫ってくる。
混乱はますます加速し、再び脇屋の首を狙う鬼松と、やっと金沢にやってきた彦乃まで合流し、状況は錯綜としていく。

最初に見たときの印象は、幽玄で虚実入り混じる映画の世界に圧倒されました。構図と色使いに滲み出る監督の個性と哲学が面白かったです。

あとで年季のいった鈴木清順ファンの人のレビューなんかも読むと、すでにOPクレジットの時点で監督の挑戦状が叩きつけられているのに気が付かされる。クレジットには「表方」「裏方」と記されて、キャストが紹介される。映画で初めてみる表記だったので覚えていたのですが、ここにすでに仕掛けがあるとは。
映画全体に「表」と「裏」という構図が繰り返し反復され、強調されているのだという。そんなこと全然気づかなかったよ……。

ツィゴイネルワイゼン

各地を放浪する中砂糺なかさごただしという男が、女を殺したという疑いをかけられ、付近の住民に詰め寄られているところを、青地豊二郎という男が割ってはいり、自分たちは士官学校のドイツ語教授だと身元を明かし、その場を取り収める。
二人の親友が、こうして奇妙な再会を果たすところから物語は幕をあける。

中砂は青地に、曰くつきのサラサーテの“ツィゴイネルワイゼン”を聴かせる。
これはサラサーテ本人が演奏したレコードで、演奏中サラサーテが何事かを呟く声が録音されているのだという。中砂はどうしてもそれが聞き取れず、青地に相談を持ちかけたのだった。
しかし、青地にも亡霊のようなサラサーテの声を聞き取ることはできなかった。

二人は旅館で芸者の小稲という女と知り合い、数年後中砂は結婚するのですが、この女が小稲そっくりの園という女だった。
しかし中砂は園を置き去りにしてふらふら旅をし、小稲とも密会する。残された小稲は青地と不倫し、戻ってきた中砂はなんと青池の妻を寝取るのだった。

浪漫三部作のなかでは、本作が最もわかりやすく面白かった。
映像や話の流れは不可解なのですが、出来事の因果関係がはっきりしており、不思議と混乱せずに見ることができる。
あろうことかオチまでちゃんとついていて、見かけ以上に論理的かつ周到に作られた映画なのがわかる。
原作は内田百閒「サラサーテの盤」に、そのほかの短編を組み合わせたもの。

掘れば掘るだけいろんな角度から語れる映画だと思うのですが、やっぱり原田芳雄演じる中砂の存在感が凄まじい。
自ら「俺は生まれてから一度も正気だったことはありませんよ」と語るくらい傍若無人で、途中から“鬼”となっていく男。中砂は女の肉体への執着を超え、骨こそが最も美しいと豪語する。でも少しわかる。
固く無機的な“骨”=死のイメージと、柔らかく生物的な“肉”のイメージがからみあっているのが美しいのだ。

もう一つの鮮烈なイメージは、“食べる”ということ。終始、登場人物はなにかを食っている。そればかりではなく、病気の夫のために、鰻の肝を口移しで食わせているという女の話があり、その後、中砂と芸者の小稲との間でいつ口に含んだのかわかりませんが、肝を口移しにするシーン、というかイメージが映し出されたりします。
それが、女から生気を吸い取っている(吸い取られている?)ように見え、中砂という男が女を食い物にしなければ生きていけない男であることがわかります。この女を翻弄しているのか、されているのか、食っているのか、食われているのかという感じがエロティックでいい。

陽炎座

最後に見に行ったのが本作『陽炎座』。
劇作家の松崎春孤(松田優作)が、品子という謎の女(大楠道代)に、女の魂です。と言われる酸漿ほおずきの実を押し付けられ、以来その品子と奇妙な縁が結ばれてしまい、吸い寄せられるように何度も再会を果たしてしまうという物語。

東京のユーロスペースでは、『輪るピングドラム』のイクニ監督が登壇して、『陽炎座』を語っていたそうですね。いいなあ。
『陽炎座』は、“人形”が鍵となるモチーフになっていて、全ての登場人物が何らかの操り糸によって動かされている。
松崎も初っ端、品子に魂を渡されるのですが、それは同時に自分の魂を相手に取られることでもある。強引な魔力による一目惚れだ。
操り人形であるキャラクターたちは、しかし機械とは違う。松崎は和田という男から、中身が空洞になっている人形を見せられる。
その空洞には、男女がもつれあう姿や男根を模したカラクリ仕掛けがしてあって、秘められた野性かリビドーのようなものが人形のうちには隠されていることを明かす。
と言ってみたものの、輪郭のない映画なので解釈は無数にある。よくわからない謎のシーンも満載だし。
これはあくまで個人の感想でした。

あとがき

いやー、正直かなり良かった。
それぞれ1回ずつ見ただけなんですけど、全然足りない。二度三度見たい。
訳がわからないからじゃなくて、むしろわかりそうな感じがするから再鑑賞したくなる。あまりにも意味不明だと、見る気が無くなるものですからね。

強烈なインパクトを残す、画ぢから。巧妙な音のトリックが醸し出す幽玄な世界。絢爛な美術と映像。久々に“映画”を見たという満足に浸れました。

サブスクを使って、過去作も順繰りに見ていくと思います。来年の楽しみですね。

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