「生の流動性と悲哀」
紅顔の哲学者を目指して#17
2024年5月7日(火)
昨日書いた日記をあとで改めて読み返した。
こう思った。
ひどい文章だし、とにかく全体的にひどいなと。そして、よくない日記だなと。
なんか、難しい言葉を使っているからとか(と言うかそもそも難しい言葉なんか使いたくても使えてない)、ではなく全体的に硬くて、何というか人間味に欠けると言うか。
日記の中で確か非人道的だと書いていたが、自分にこう言いたい、「お前の日記の方が非人道的だ」と。
人間は両性具有性を持ち合わせているはずだが、ボクの昨日の日記は極端に父性的というか、男性的すぎる様な、もっと母性的かつ女性的な要素が欲しいなと思った。
でも一方で、すごくたくさんのいいねをもらえて嬉しかった。周りからしたら大したことないだろうと思うかもしれないが、ボクにとっては大したことである。
いいねをくれた人達ありがとう。これからも読んでね。いい日記を書くので。
あと、一番いいねの数が多い日記が「哲学への興味の発端」だったのだけれども、それを悠々と超えてしまった。すごく嬉しかった。自己記録を更新できた。
これからもっと魅力的な、そしてみんなに影響を与えられる様な文章を書くのでそっと応援してくれたら嬉しいです。
今日は「生の流動性と悲哀」について。
生の流動性?、悲哀?
今日はゆるく、小川の流れの様にいこう。
昨日の日記は硬いといったが、例えるなら水車の様なはたまた時計の中の歯車の様なとても機械的な雰囲気があった。
今日はもっとK-POP アイドルのダンスの様な、バレエ選手やスケート選手みたいな柔らかい踊りを見せたい。できればの話だが。まあ今の実力だとできないのはわかっている。ただ、そうしたいというだけ。
だから深く考えずに書く。
まず、"生の流動性"。
わかりやすくいうなら、変わらない人はいないということ。
よく地元の友達に久しぶりに会うと、「お前変わってねぇなあ」と言われることはよくある話。
これは大間違いだ。
たしかに、髪型は服装は変わっていないかもしれない。でも内側は、内面の方は変わっている。
だから、「本当に変わったね」と言ってあげる方が正しいっちゃ正しい。
ただ、どちらが良いのかと言われたらどっちでもない。それは人と人との会話だからどちらかに決めることはできない。
つまり、生きとし生きるものは川の流れの様に動き続けている。たえず流動しているということ。
そして、これは"自己の複数性"にも繋がる。
詳しくはまた別の日記で書きたいから、簡潔にいうと、人間は生き物であり、動的生命なのだから、その時々の他者との関わりの中で、色々な人に影響を受ける。その過程で以前とは違った自己が形成され始める。それは常に人間があらゆる面において動き続けているからであり、生命の小川の流れに色々な他者からの影響という要素が加わり流れは当然変わるし、川も一つではなく、二つ三つ四つと増えていく。その川の増幅はつまり「自己が複数性を帯びる」ことを意味する。
つまり自己は1人ではない。ということ。
だから、生命は絶えず身体的にも精神的にも動き続けるという"生の流動性"は自明である一方、忘れてはいけない重要な、人間である、いや生き物である条件だ。
そして、"悲哀"。
結構前にXにこういう投稿をした。
ボクは、堂々とこの"悲哀"によって哲学が好きになったと、哲学者になると決心したと言い切れる。
詳しくは前の方の日記を読んでくれたらわかるが、悲しみや苦しみは時として活力に、そして糧になる。
今日は"悲哀"について主に書きたい。
もちろん"生の流動性"も関係あるが"悲哀"がメイン。
なんで"悲哀"かというと、本当は本との出会いについて今日の日記で書こうと思ったが、昨日の日記を読んでくれた人はわかると思うが、今働いている本屋が閉店することになり、ボクは今深い悲しみの只中にいるからだ。
だから、この喪失感について書きたいなと思った。
喪失感とは何か。
という根本的な当たり前かもしれないことについて改めて、いや「初めて」考えたいから。
本来、喪失感や悲しいという感情について深く考える必要もないだろう。
でも、大事な「居場所」を失うことを告げられた以上、この深い、そして行き場のない喪失感をどうしたらいいか分からず、そうやって根っこから考えるしか、僕にとっては最適解が見つからない。
さて、人が悲しい時の心の状態はどうなっているのだろう。
よく、「心にぽっかり穴が空いた」とか言ったりするが、この今の深い悲しみを表現するにはとても似合わない。
じゃあ、今の僕ならなんと表現するだろう。
うーん、一言でいうなら、よくわからない。これが一番適切だろう。だって、突然のことすぎてよくわからないから、よくわからないのだ。
でも、そんなんじゃそれこそよく分からない答えなのでもっとちゃんと考えてみよう。
例えるなら、真っ白い何もない様な無の空間に当然放り投げられた蟻の様な感じだ。何をしたら良いのか、どこに行ったら良いのか分からずに右往左往している。
だから、涙を流す様な悲しみとはまた違うのかもしれない。泣きはしなかった。ただ、ただ、目の前に突如現れた壁の様なものに圧倒されてびっくりしている。そっか、驚きもあるのか。
驚きを伴った、涙は流れない、悲しみ。
親とかに相談したら変わるのだろうか。現状、ショックすぎて誰にも話せていない、1人で抱え込んでいる。というか、誰にもこのことを話したくない気分。
今後の進路にも関わることなのだから、むしろ話さなくてはいけないことではある、少なくとも親には。でも、話したくない。
話したら、その事実を認めてしまう、事実を事実として承認してしまうことになるから話したくはないのかもしれない。どうだろう。そんな気もしなくはない。
「居場所」とか大事なものを失うことになるというのは、こんなにも苦しいのか。
僕としてはもはや大事な人を亡くす様な感覚にすら近い気がする。もちろん、大袈裟かよと思うかもしれないが、そんな感じだ。
では、最初に話した"生の流動性"と"悲哀"とを絡めて書こう。
"悲哀"は言うまでもないが感情である。そして、生命の流動性というのは生きているものは常に動き続けているという揺るぎない定理であり、生き物である条件だ。
つまり、なぜ一緒に考えるかというと、生命というのが動き続けるのであれば、その生命のうちの一つである人間という生き物に備わる精神面における感情も、常に動き続けるはずだからだ。
感情が変わり続けるというのはもちろんみんな納得してくれるかもしれない。ずっと同じ感情の人はいないから。
でもボクの場合、悲しいという大きな感情が軸として今存在していて、その周りに普段生活している中で感じる取る感情、眠気や空腹感などがシャボン玉の様に周りに漂っているイメージだ。
だから、いつまで続くのかは分からないが、先の見えない川に悲しいという名の水が永遠と流れている。
で、いま「いつまで続くか分からない」と言ったが、これがとても重要で、ボクが一番ここで書き記したいことだ。
普段の生活の中で起きる感情、それが短期的でもボクの様に長期的なものでも、ほとんどの人は「時間が解決してくれる」だろうと思ったりするだろう。そうじゃないかな。ボクもそこの日記を書く前はそうだった。
だが、ボクはこの「時間」というものを真っ向から批判したい。非時間的な考え方で今回の"悲哀"について書きたい。
先に結論を言うなら、時間が刻一刻と流れているから、感情も移り変わるのではなく、生の流動的性質があるから、感情もそれに応じて流れ去っていく。つまり、負の感情に対してよく言われる、時間が解決してくれるというのは大間違いであり、"生の流動性"が解決してくれると言うのが正しいのだ。
これがボクが今日書きたかったことだ。"悲哀"がメインの問いではあったものの、"生の流動性"というワードを持ち出した理由はここにあった。
フゥ、ここまで書いて、体力を結構使った。
少しチルしながら今日の日記は終わろう。
でも、その"生の流動性"にまかせていたらこの感情も薄れていくのだろうか、まあ、薄れてはいくだろう。「生きている」のだから。
それにしても、辛いことには変わりはない。どんだけ頭で考えたところで消し去ることはできない。まあ、消す必要すらないのかもしれない。むしろ真正面からこの感情と自分1人で向き合うことが大事なのかもしれない。この大きな負の感情は、ボクがあゆみBOOOKSを大好きである大事な証拠なのだから。
最初に書いた通りゆるくかけたかな。
自分の中ではゆるくかけたつもりなんだけどな。どうだろう。みんなの反応を見るしかないね。
でもやっぱり、女性的なというか芸術性に欠ける文章だなと書きながらリアルタイムで思った。
まぁ、今日はこの辺で終わりにしようか。
結構長くなっちゃったし。
明日は多分「本」について書くと思う。
楽しみにしててねー。
じゃあなー。
おまけ
"生の流動性"というものを絵で表現するならこんな感じ。
あともう一枚。見せるね。
以上でした。
ありがとう。最後まで読んでくれて。