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「自然界に於ける外在的自己〜母というもう1人の自分〜」

紅顔の哲学者を目指して#20

2024年5月10日(金)

この日記で何回か自分という存在について考えているが、僕は自己は一つとは言い切れない存在であり複数あると考えている。
自分から見た自己、他者から見た自己のように、複数存在するが、それは全て内在的でかつ精神世界における自己の複数性であり、物理的に考えて自分というのは一個の体しかない。つまり外在的には本来、自己は一つしかない。
そこで僕がここで書きたいのは、自然界(精神の外の世界)における自己に対してもう1人の自己が存在するという話だ。それは母親である。
僕は自然界において母というのは外在的なもう1人の自己であると考えている。なので、精神界という内の世界では自己は場合によって、ほとんど無限に存在し得るが、精神の外の世界では自己は自分自身の存在と母の存在の二つしか存在し得ないということだ。
なぜそう考えたかといえば、簡単に一言で言ってしまえば僕という存在を産んだのが母だからである。だから、父親はもう1人の自己にはなり得ない。母性的とか父性的であるとかいうことは関係なく、生物学的に女性であり僕を産んだのがその人であるというのがもう1人の僕である条件だ。
家庭環境やその人の性格にもよるが、一般的に言って母親はとても口うるさい存在だ。自分のことのように子供のことを心配する。いや、自分以上に心配してくれる。そんな人はこの世の中に母親しかいないだろう。
ただ、注意しなくてはいけないことがあり、今書いている母親というもう1人の自分というのは僕の母親を例にとって書いているため、一つ隣の家では母親がいないかもしれないし、いてもほとんど育児を放棄しているような母親である可能性もあるため、その人たちにとってはこの存在論は全く筋が通っていないように感じるかもしれない。本当はいろいろな家庭環境を自分で見てこういうことを書きたいところだが、それはとても難しいためとても主観的になってしまうが今のところはしようがない。だから、この考え方は全ての人に当てはまる普遍的なものではないことを前もって言っておきたい。
だが、いつかは全ての人に当てはまるようにこのテーマを書きたい。ただ、そうするにはまだ僕の力量が足りないのでもっと頑張る必要がありそうだ。
そういうことで、僕の母親の話になってしまうが、僕がこのような精神疾患を抱えるようになってからというものの毎日のように心配し気にかけてくれるようになったと思う。もちろんそれまでもよく心配してくれていた。
母親自身も精神の病について調べて勉強してくれているのか、以前よりも体調の悪い僕に対して優しく接してくれている。それまでは不調な僕を見ると接し方がわからなかったのかもしれないが、ぐったり寝込んでいたりするのに対して息子のことを思ってか、怒られるようなことが多かったと思う。
そして、僕が体調が悪くて、元気のない暗いところを見ると、こっちまで暗くなるとか体調が悪くなると言って、実際にその影響を受けてなのか、ただ単に家事や仕事で疲れてなのか本人に確認しないとわからないところではあるが、そのように言ったあと、母親が寝込んでいるのを時々見かける。ただ昼寝をしてただけという可能性もあり得る。
僕が体調が悪くなったら、母親までその影響を受けているのを見て、その時に母という存在は僕そのものなのかなと思った。これが母親がもう1人の僕である条件の二つ目だろう。
もちろん、性別も違えば、年齢も好みも違うし、似ているところはあるといえども性格だって一緒な訳はない。
ただ、特に子供が負の局面に立っている時の母親の行動や態度、気分の変容具合、表情などから僕は、心の中にではなく外の世界にもう1人の自分というものが存在するのではないかと思った。
小さい赤ちゃんが父親よりも母親に懐いたり、母親が抱っこすると泣き止む、そして誰しもがそうであるように母親が亡くなった時には深く悲しみ深い失望感や喪失感に襲われる。それは父親の時よりも大きな悲しみであることが時としてあるような気がする。
そういうところからもやはり生物学的に母であるということよりも、ずっとそばで面倒を見て育ててくれた人であるということが母親を特別な存在にしているのかもしれない。
この問いは自分について考える際にとても重要なことになるので、今後はもっと深くそれについて考えてみたい。
明日は、今度こそ本について。たぶん。
また変わるかもしれない。
では。
じゃあなー🫵🏻

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