かつて日本だった場所

 去年の夏、noteでこんな記事を書いた。

樺太師範学校って、知ってる?①ー真岡郵便電信局事件によせてー|Citron|note

樺太師範学校って、知ってる?②ー真岡郵便電信局事件によせてー|Citron|note

 そして、久しぶりにこの記事を開いたらnoteから警告文が貼られていてびっくりした。ロシア・ウクライナ情勢に関する記事だからだ。

 この二つの記事を書いた時はこんなことになるなんて微塵も思っていなくて、ただ「夏になると思い出す」という程度のことだったのだが、今の情勢を見ていて、わたしはある気持ちを強くしている。

 それは「樺太に行ってみたい」という願望だ。

 理由を詳らかにするため、少し身の上話をしようと思う。

  わたしは祖母・母・娘(自分)が同じ教職という仕事に就いている。親子で先生というのはままある話だが、三代続くのはちょっと珍しい。

 歌舞伎や大企業のように世襲である必要のない職種だし、実は採用試験の時には「コネなんじゃないの?」と言われて嫌な思いをしたことがあるので、ごく親しい同僚にしか明かしていない。

 つまり、わたしの教員としてのルーツは祖母から始まったということだ。
 その祖母が青春を過ごしたのが、上の記事に書いた樺太師範学校である。

 樺太師範学校は、南樺太の豊原にあった教員養成の学校だ。今はロシアが実効支配しているが、昭和初期は千島・樺太交換条約によって日本領だったのである。

 青森の小さな港町に住んでいた祖母が、北海道のさらに北にある遠い遠い樺太へなぜ行こうと思ったのか。

 それは、簡単に……というかカッコよく言うと「女性としての自立のため」なのだが、母曰く「家出に近い」らしい。

 祖母の実家はたいへん裕福な商家で、祖母の母(つまり曾祖母)はいつもキセルを燻らせていて、子育てはお手伝いさん任せだったと母は言っていた。昔の家で兄弟も多かったし、祖母は親から目をかけてもらえず、大人になっても冷たくあしらわれてばかりだったというのだ。

 実母からろくに愛情を貰えなかった祖母は、実家を出たくてたまらなかった。そこへ「樺太師範学校の生徒募集」の知らせが舞い込んだのだ。

 当時、樺太師範学校は宣伝も兼ねて裕福な家の子女に声をかけて回っていたらしい。師範学校では学生の身分ながら給料も出る。ハイカラな制服も着られる。祖母にとって、これ以上ないくらいの好条件だった。樺太という途方もなく遠い土地も、祖母にとっては希望溢れる新天地に思えたことだろう。

 これが「家出に近い」祖母の樺太師範学校入学エピソードなのだが、興味深いのは「おばあちゃんは樺太での思い出は一切話してくれなかった」ということだった。

「え、なんで……?一番楽しい時だったんじゃないの?」

 わたしが間抜けな質問をすると母は。

「ソ連軍がね、本当に怖かったみたいよ」

 と、一言だけ答えた。

 孫娘のわたしには何にも話してくれなかったが、娘である母にはポツポツと話したことがあったのだろう。しかし、やはり詳しいことは教えてもらえなかった。実は祖母がロシア語が話せたということも、亡くなった後で知った。

 祖母が樺太師範学校に通っていたのは、おそらく昭和15年から昭和19年あたりであると推測している。

 そのあたりの樺太の歴史を調べると、残虐な出来事が次から次へと出てくる。

 「これが戦争ということか」と、今の情勢とどうしても重ねて考えてしまう。

 ちょっとここに書き記すのも憚られることばかりなので、ぜひ個別に調べてほしい。正直言って「おばあちゃんよく殺されなかったな……」ということばかりだ。

 そんな祖母だったが、晩年に認知症が進むとなぜかわたしにぽろっと樺太のことを話してくれたことがあった。

 京都土産に美味しい高級食パンを送ると

「樺太で食べたパンを思い出した。懐かしかった」

と感想を言ったり、

「冬になると樺太では氷を張ってみんなでスケートをした。もう少し休みがあると亀のある島まで遊びに行ったんだよ」

と、思い出話をしてくれた。

 しかし、ソ連やロシアのことについてはついぞ口を割らなかった。

 ごく稀に話す際には、かの国を蔑称で呼んでいた。

 それには濃く恨みの色が滲んでいたと、母は言う。

 最期は、教員時代に教え子と散歩した湖の近くの病院で亡くなった。

 祖母は幸せだったのだろうか。

 誰にも話せないような学生時代を送り、定年まで故郷の青森県で祖父と共に教員として働いた。ちょっと短気だが、教えるのは上手で優秀な教師だったらしい。ただ気が強くて、子供と保護者と、さらに夫で同僚でもある祖父とケンカばかりしていた。

 祖母はわたしととてもよく似ている。母よりも似ているかもしれない。

 わたしも突然会社を辞めて通信大学で資格を取ったりと、時々びっくりするような行動力を見せるし、20代のころは管理職とケンカを繰り返していた。ついたあだ名は「無駄に武闘派」(笑)今では少し大人になったと思っているが……。

 わたしのルーツは祖母に、そしてかつて日本だった樺太にある。

 もし祖母がまだ生きていたら、何か語ってくれただろうか。

 いつかこの足で樺太の土を踏み、祖母の足跡を辿りたい。

 

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?