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心に残る映像とは何か

心に残る映像はいつでも取り出せるが触れたくないもの

「心に残る映像として、一番強く残っているものはなんですか?」
このような質問を受けた時、私の中に出てくるのは『秒速5センチメートル』というアニメ作品である。
今やアニメ界では知らない人がいないほど、有名になった新海誠監督の初期の頃の作品である。この作品は、新海誠監督作品の中でも、小説化された初の作品としても有名である。私が映画を見たのも、その小説を手にとったのがきっかけだった。
「映画は映画館で見なくては、本当の感動は味わえない」
そんな言葉も聞こえてくるが、私がこの作品を「見たい」と思った時には、劇場公開は終了していた。そのため、DVDを借りて来て見た。
他の映画作品のように、普段はワイドショーなどを映している自宅の小さなスクリーンで、自分だけの映画館気分を味わって観ることにした。
始まって間もなく、私はその映像に釘付けとなった。
『秒速5センチメートル』で落ちる桜の花びら。
その可憐で美しい様は、私の心を洗い流すほどの威力に満ちていた。
毎日の仕事や、ドロドロとした人間関係によって、傷つき、疲れ切った心。
そんな心の隙間を、美しい映像がすり抜けていく。
じわじわと染み渡るような、温かい気持ち。
「癒される」という言葉を知ってから、何十年にもなるが、本当の意味で「満たされる」という意味がわかった瞬間だった。

普段の仕事で疲れていた私は、この小説の装丁だけで癒される気持ちになった。
手に取ると、ほんのりと温かいように感じる。
その温かさは、桜の季節である春うららではなく、そっと心に寄り添うような、そんな温かさを持っていた。
日々の激闘の中、何かを求めて足が向いた書店。
悲しい気持ちでもあり、泣きたい気持ちでもある。
いつもなら、書店が開いている時間に帰れない事がほとんど。
それにも関わらず、その日だけは間に合った。
漆黒の闇夜に浮かび上がった、ほんのりと灯った光。
まるで炎に吸い込まれる蛾のように、ふらふらと、それでいて明らかに目的を持ってその光へ向かっていく。飛び込むことで命が尽きることを知らないのか、命が尽きても悔いはないのか解らないが、覚悟を決めるというよりも、それが自然の摂理のように吸い寄せられる。
癒されたいという気持ちがあったわけでもない。本によって救われたいという気持ちに満ちていたわけでもない。
それなのに、足が向いていた。気がつくと書店の中にいた。
本が欲しかったわけではないのに、気がつくと私は一冊の本を手に取っていた。

何気なく手に取った小説。
元々、“ミーハー”とは真逆な立ち位置で物事を見る事が多い私は、あえて“他人が注目していないもの”に目を向ける事が多かった。
そんな中で、『秒速5センチメートル』は、劇場公開が終了していたものの、私の中では十分に「今、流行りの作品」だったのである。
それなのに、何気なく手に取ったのは、その表紙の“絵”だった。
桜の絵。本の装丁に対して、明らかにサイズ違いのような、小さな小さな挿絵のような絵。それがオシャレに映ったのだが、何よりもその存在の控えめさが、その作品全体のイメージを表しているようだった。
「感動させてやる」「泣かせてやる」といった雰囲気が全くない。
流行りの作品には、派手な帯をまとったものが多い中、その小説は控えめであり、散りゆく桜のような儚さを持っていた。

感情に割合があるのだとしたら、喜怒哀楽の感情全てのパラメーターがMAXであるような、全てのパラメーターがゼロであるような感覚。感情が壊れているような感覚。
こんな時は、叫び出したいような、優しさに包まれたいような、どちらでもないような、どうしたらいいのかわからない。
そんな感覚を何とかしたくて、誰かに何とかして欲しくて書店に自分の心を委ねる。
本が癒してくれるとは思っていない。心の穴を埋めてくれるとは思っていない。
しかし、それでも、書店の空気が吸いたくなる。
そうした思いは、『秒速5センチメートル』のような本によって、コントロールされているのだと思った。
「こっちにおいで」
本が囁いている声が聞こえる。
自分の声にならない声が、誰かに向かって叫んでいるように、本が囁く声をキャッチするのは、傷ついて地面に這いつくばっている者だけなのだ。
上空高く飛んでいる鳥には、素晴らしい景色と、遥か彼方からやってくる風を自分をさらに上空へと誘うものにする事ができる。
しかし、上空を飛び続けることは不可能だ。疲れて降りることもあるだろう。
傷ついて飛び続ける事が困難になった鳥は、下降して森の木に枝にとまり、羽を休める時間が必要となる。
今は、そんな時だ。
静かな森では、誰が囁く声が聞こえる。
その声に向かっていった先には、自分を包んでくれる繊細な光が灯っている。
そうした光が必要な時にだけ、そうした光を見つける事ができる。
『秒速5センチメートル』という作品は、傷ついた私の羽を休めるのに、必要な枝だった。

小説で傷を癒した私は、それでも明日から飛び立つ事ができるほどの回復はできなかった。
なんとか、木にとまっていることができる程度。
そんな中、私はもっと『秒速5センチメートル』の柔らかな日差しを浴びたくて、DVDを借りに行ったのだった。
7泊8日のレンタル期限ギリギリまで、何度も何度も見返した。おそらく日本で一番『秒速5センチメートル』の物語の世界に浸った人間ではないだろうか。

社会という激しく吹き荒ぶ大空で飛び続けることを余儀なくされている私たちは、時には羽を休めたくなることもあるはずだ。
傷つき、飛べないのに、必死に飛ぼうとして墜落していく仲間も多く見てきた。
そんな中で、限界まで飛ぶことによって、目的地に早く到達する者もでてくる。
時には、隣を飛ぶ者のために、自分を犠牲にすることもある。
時には、間違ったルートを教えられ、スタート地点から逆方向に飛んでいることもある。
それでも私たちは、最期まで飛ばなくてはいけない。

寿命を削ってまで、最後まで全力で飛ぶ人もいる。
羽を休めたまま、森で一生を終える人もいる。
飛ぶことも、休むことも自由。

「休むことは負けることだ」
そんなふうに言い聞かせながら、私は全力で飛んできた。
そんな中で、自然に溶け込むように出会った、柔らかくて温かい世界。
負けたくないのに、自然に出会ったことによって、受け入れる事ができた。

書店で出会ってから、DVDで映像として見るまで、それほどの時間は要しなかった。
大空の強風とは裏腹な、秒速5センチメートルで落ちる花びら。
こんなふうに、ゆっくりと落ちることもできる。
上空まで上り詰めて、墜落することもある。
しかし、森でとまっている木の枝から、ゆっくりと降りることもできるのだ。
生き方なんて、人それぞれ。
正解なんてない。
「目的地まで行かなくてはいけない」
「夢を叶えなくてはいけない」
がんじがらめにしてきた人生の中で、もっと違う生き方もあるのではないか。
そんな選択肢をくれた作品。

「上空高く登ったら、誰よりも日の出が早く見られる」
自分がこだわっていたことも、間違いではない。
高みを目指して、目的地に到達する喜びを噛み締めることも、魅力的である。
しかし、桜の木から、ゆっくり降りることでしか見られない景色もある。
そして、それを見た人が、その姿を美しいと思ってくれることもある。
どんな生き方でも、自分にとってそれがベストなら、それは人を魅了するのだ。

それからというもの、春になると毎年、花見をするようになった。
『秒速5センチメートル』の世界に浸るためである。
あの日以来、小説もDVDも見ていない。
これ以上見ることは、私の中に残っている映像を汚すことになる気がしているのだ。
仕事で疲れて、世界がモノクロとなってしまった中で見つけた世界。
あの時、あの瞬間だからこそ、味わう事ができた感動だったのかもしれない。
今、見ることによって、“あの頃”の感動を失ってしまう事が怖いのである。

“あの頃”といえば、『秒速5センチメートル』の中でも描かれていた。
心から願ったり、思ったことは、心の底でずっと生き続けるものだ。
本作品の中で、そんな思いを思い出すきっかけとして登場するのは、“13歳の時にお互いに渡そうと思って渡せなかった手紙”だった。
手紙を読むと、その頃の気持ちが蘇ってくる。手紙というものは、そんな効果があるものだと思う。
しかし、映像作品というものは、そうではない。
“あの頃”に受けた感動というものを、そのまま受け取る事ができないものだ。
なぜなら、成長してしまっているからである。
自分の心も、自分の感情も、自分の感性も成長してしまう。
純粋なものを、純粋に受け取れる期間というものがある。
10代の頃に、相手のことを強く思う事ができるのは、世界が狭いからだ。
世界の全てが、相手と自分だけになる。没頭する事ができる。
世界の全てだった想いが、ずっと心に残っていくのである。

そんな思いを大切にしたいと思う。
10代の頃に、強く思う事ができたことは、大切にしていきたいと願う。
そして、大切に思えば思うほど、それを汚されたくないと思うのだ。
仕舞っておきたいという気持ちになる。
誰にも触れさせたくなくて、できるものなら、その時の空気でさえも、そのままにしておきたいと思うものだ。
だから、見ない。
ずっと浸っていたいと思うのに、浸っていることによって汚されることが怖い。
10代の思い出は、死ぬまで綺麗なまま保ちたい。
そして、時折思い出しては、その空気を吸いたくなる。
私にとって、『秒速5センチメートル』はそんな作品だった。
何度も出しては眺めていたい宝物なのに、何度も出したくない。
いつまでも見ていたいのに、何度も見ることで美しさが損なわれるような気がする。
10代の自分は、いつまでも10代ではないのだ。
50代にも60代にもなってゆく。
そうした時にでも、あの頃の思いは、あの頃のままでいたい。

これは、時間という争う事ができないものに、争うことになるのかもしれない。
どんなに逆らっても、決して覆ることはないものに対して、もがき苦しんでいることになるのかもしれない。
しかしそれでもいい。
醜くてもいい。かっこ悪くてもいい。
誰になんと言われようとも、守りたい映像があるのだ。
そのためには、この矛盾と戦う必要がある。

10代の思いというのは、伝わらないものだ。
それは、言葉を知らないからなのか、伝え方を知らないからなのかはわからない。
ただ、一つ言えることは「それが人生の全て」となるからだと私は思っている。
全身全霊をつくして、相手のことを思うからである。
「他には何もいらない。ただ、相手と気持ちを共有するだけで幸せ」だという思いが、何気ない言葉となって溢れている事が答えであるように思う。

いろいろな思いを抱えながら、それぞれに成長していく。
人生とはそういうものだ。
人を思い、忘れながら成長していく。
しかし、心から願い、思ったことは、心の底でずっと生き続けるものだ。
心に残る映像というのは、こうした想いに近い。

その時に強く思うことは、その時の自分だから思うのだ。
今の自分では思う事ができない。
成長することによって、得るものもあるが、失うものもある。
心に残る映像というのは、その時だから残るのである。
「その時に心に残った自分の心ごと映像として残す」
これが、心に残る映像の正体であるように思うのだ。

私たちは、日々の環境を変化させながら、成長していく。
自分は変わっていないように思っても、人を思ったり、人に思われたりすることによって、変化しているのだ。
変化した自分だからこそ、感動する作品に出会う事ができる。
その作品に包まれる事ができたのは、弱っている自分がそこにいたからである。
そのような状況がなくては、その作品に出会うこともできなかった。

心に残る映像と共に、自分の中に強く残る思いなどは、自分が生きてきた証拠であり、大切な自分の軌跡の一部となる。

こうした作品や思いを、一つ一つ紡ぎ合わせて、自分というものができているのだ。
私にとって『秒速5センチメートル』という作品は、心に残る映像とともに、もはや私の一部と化しているのである。

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