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『私の身体を生きる』(全紙掲載本を読む/2024年④)


17人の赤裸々エッセイ集

 これはなかなか大変な本でした。手にしてページを開くのさえにはばかられるという面も少なからずありました。

 17人の文筆家が、それぞれの身体にまつわる事情を赤裸々に記したエッセイ集です。うち16人は生物学的な女で、一人は女性として生きている生物学的な男です。

 彼女たちが自慰やセックスや性具や妊娠や出産やむち打ちされる喜びや売春体験やAV出演などについて、生々しい実体験を語るので、通勤電車の中でタブレットを起動させるのに、なぜか恥ずかしいような後ろめたいような気になるのです。隣席に女性(少なくとも外見が)が座っていたりすると、覗かれやしないかと、ひやひやしました。
 しかし、そこで語られているのは、本人による本人の体験なのですから、こちらが恥ずかしくなる道理はどこにあるんだろうかと思うのです。この本からの最初の問いかけは、なぜ通勤電車で読みづらいのかという謎でした。

異性の視線の抑圧

 仮にこの本が、私と同じ生物学的男に生まれついた文筆家たちによるエッセイであったら、同じような内容であっても、ここまで恥ずかしくないと思います。また、通勤電車が、少なくとも見た目が私と同じ生物的性の乗客だけであったら、その場合も、ここまで恥ずかしくないと思います。
 そこで考察した結果は「恥ずかしいのは、異性の視線が気になるから」、というものでした。

 この視点から本書を読むと、若いころから常に異性の視線にさらされる方の性に生まれついたことが、多くの筆者の人格形成にまで及んでいることに思い至ります。多くの筆者が共通して、少女時代までにトラウマになるような体験や家族との葛藤を抱え込み、その抑圧下で本当の自分を偽ったり、見失ったまま生きてきたこと、ようやくこの年(文筆家によって様々ですが)になって、本当の自分を取り戻したように感じることを語っています。

 読み進めるうちになにか息苦しいような気分になりました。

 とはいえ、山下紘加さんのエッセイで展開される女子高生時代の女友達との明け透けな会話からは、実は生物的男だって異性から容赦のない厳しい視線にさらされていることが読み取れます。それを大した抑圧と感じ取れないのは、視線が死角から注がれているからか、単に鈍感なのでしょうか。

 もう一つの謎は、本書に記されたことはどこまで一般的なのかでした。
 誰にも起きていることで、それを言語化できる能力と立場にある人たちが、いまここに披露しているのでしょうか。それともそのような経験による苦しみがなければ、文筆家になることもなかったのでしょうか。または文筆家になるような人が、ひときわそのような視線に敏感なのでしょうか。

 よくわかりません。程度を気にしなければ、みんなに当てはまるのかもしれません。
 つまるところ、読んでいただくのが早いと思います。著者とエッセイタイトルを書いておきます。

著者とエッセイタイトル

Better late than never 島本理生
肉体が観た奇跡 村田沙耶香
「妊娠」と過ごしてきた 藤野可織
身体に関する宣言 西加奈子
汚してみたくて仕方なかった 鈴木涼美
胸を突き刺すピンクのクローン 金原ひとみ
私は小さくない 千早茜
てんでばらばら 朝吹真理子
両乳房を露出したまま過ごす エリイ
敵としての身体 能町みね子
愛おしき痛み 李琴峰
肉体の尊厳 山下紘加
ゲームプレーヤー、かく語りき 鳥飼茜
私と私の身体のだいたい五十年 柴崎友香
トイレとハムレット 宇佐見りん
捨てる部分がない 藤原麻里菜
私の三分の一なる軛 児玉雨子


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2024年

2023年

2019年から2022年


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