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自己犠牲と他者貢献

こんにちは。ちょっと時間と心に余裕ができたので、久しぶりにnoteを書こうと思います。今回は自己犠牲をメインにしたお話です。

意外と身近な自己犠牲

 こんな書き方をすると語弊があるかもしれませんが、私たちの生活は、誰かの自己犠牲によって成り立っています。まず、時給が固定されていて誰にも監視されていない仕事のことを考えるとしましょう。私が、もし、時給が固定されていて、さぼっていても誰にも注意されない状況に置かれたとき、まず考えるのはいかに仕事の手を抜くかだと思います。ほかにも自分と同じ仕事を任されて、同じ状況に置かれた人が10人いるとします。その中の9人が私と同じように、仕事の手を抜くことを考えています。残りの1人はとても責任感が強く、仕事の手を抜くことなど一切考えていません。さすがに1人に仕事をすべて押し付けるわけにはいかないので、私を含めた11人のうち5人はまじめに仕事に取り組みました。「達成感」や「充実感」は別として、まじめに仕事に取り組んでも、手を抜いて仕事に取り組んでも得られる報酬が同じであるため、結果的に効率よく報酬を手にしたのは手を抜いて仕事に取り組んだ人になります。この時、自分を犠牲にしたのは間違いなくまじめに働いた5人でしょう。私はまだ19年ちょっとしか生きていませんが、このような経験をたくさんしてきました。また誰かにこのような経験をさせてきたかもしれません。あなたも経験したこと、あるいは見たことが、あるのではないでしょうか。ここからは、たった19年ちょっとしか生きていない私の自己犠牲についての考え方書いていこうと思います。

人のためと、自己犠牲は何が違う?

 私は中学2年の夏から中学3年の夏まで、陸上競技部の部長をしていました。それなりに部員数が多い部活で、さらに県でもそこそこに強い部だったので、常に自分が正しい行動をして部を引っ張っていかなければいけないと思っていました。そんなに気負う必要なんてないのに「頑張らなきゃ」、「自分がしっかりしなきゃ」と自分を常に追い込んでいました。はたから見たら空回りしていた部分もあったと思います。いま考えると、なんでそんなに頑張れていたのか不思議ですが、7時30分開始?の朝練のために6時30分に家をでて、一人か家が近かった友達と二人でグラウンドにトンボをかけ、道具の準備をしていました。それぐらいかよって思うかもしれませんが、これを学校がある日、毎日してたんです。「なんでこんなことしてるんだろう」と思いながら、一人で部活の準備をしていたこともありました。中学生のときから、自分が指示を出す立場に立たせてもらったときには、まず自分から動こうという考え方だったので、実際にはどうかわかりませんが、それなりに部員には信頼されていたと思います。私の中でここまでは人のためにやっていたことです。あくまで私の中での線引きですが。自己犠牲をすることによって人を助けることができると思うようになったのは「人のために」が度を越えたときです。私は中学校の時、1500m走を専門種目にしていたのですが、部の中で3番目ぐらいのタイムを持っていたので、ありがたいことにいろいろな試合に出していただいていました。陸上競技の大会では同じ日にいくつもの種目が行われます。試合に出場する選手だったら自分の出る競技に備えて準備をして、自分の競技で結果を出すことを最優先で考えます。しかし、いつからかわかりませんが、私にとっての試合は自分が結果を出すためのものではなくなっていました。自分が結果を出すためというよりも、部員のみんなに結果を出してもらうために、試合に行っているようなものでした。自分の競技がまだなのに、競技をしている選手の荷物をスタートからゴールに移動させたり、走り終わった選手のマッサージをしたり、試合前のアップを一緒に行ったり。自分の競技の結果を捨てに行くようなことをしていました。こんな書き方をすると、ほかの選手にいいように使われていたみたいに見えますが、実際には全部私が勝手にやっていたことです。いろんな人にもっと自分の競技に集中しろと言われました。でも、できませんでした。自己犠牲をすることに依存してしまっているんです。それは今も治っていません。

自己犠牲から抜け出せなくなる

 「自己犠牲から抜け出せなくなる」と言われて、ピンとくる人はあまりいないと思います。というかピンと来てほしくないです。私のことをおそらく大切に思ってくれている人たちにはよく「嫌なことがあるなら我慢せずに話して」とか「もっと自分のことを大切にして」とか「もっと自分のこともちゃんと考えて」とか言われます。ただそれができれば「自分のことを犠牲にして人を幸せにしよう」なんて考え方にはならないわけです。

 私の中で自分のことを大切にするというのは、自分の周りにいてくれる人に幸せでいてほしいと思える感情を大切にすることです。自己犠牲によってその人が幸せになるのであれば、何のためらいもなく自分の気持ちを犠牲にします。つまりこれは、自己犠牲をしないために自分のことを大切にすると、自己犠牲をすることになるんです。ものの見事に自己犠牲から抜け出せなくなりましたね。ここまでくると自分の考え方を根本的に変えなければ自己犠牲から抜け出すことはできません。どうしたものか。

人が自分のことを大切にしてくれる

 いまだに自己犠牲からの抜け出し方がわからない、私ですが、それでも何とか自分の命までは犠牲にすることなく生きていけています。それは私の周りにいてくれている人が大切に思ってくれているから、大切にしているよって伝えてくれるからです。かなり前に父がすい臓がんで亡くなったときの話を書きました。そこで出てきた友達は今でも、私のことを大切におもってくれています。たぶん。大学で出会った人たちも、こんなひねくれた考え方の私と仲良くしてくれています。自己犠牲をすることは結果的に自分のことを大切に思ってくれている人を裏切ることになるかもしれません。ただ自己犠牲をしなくなったときに、「いままで私のことを大切にしてくれてありがとう」と言えるように、生きなければいけないなと思います。「どうして生きているんだろう」と思うことはいまでも、たくさんあります。でもそれ以上に死ねない理由がたくさんあります。生きている理由をくれる人がたくさんいます。生きなきゃだめだよと言ってくれる人もいます。私のことを記憶の中においてくれている人がいる限り、私は自分の命を犠牲にすることはありません。

 もしあなたが大切に思っている人に、もっと自分のことを大切にしてほしいと思ったり、大切な人が自分のことを大切にできなくて悩んでいたら、ちゃんとあなたのことを大切に思っている人が、近くにいることを伝えてください。伝えられるうちに。

あとがき

 noteのなかでは暗い話ばかりしているので、暗い感じの人だと思われているかもしれませんが、実際普段生活しているときは、「まったくメンタル弱そうに見えない」とか、「なんでもポジティブにとらえられそう」とか言われます。私はこうしてnoteに書くことで自分の思っていること、弱い部分を公にしていますが、どんな強そうに見える人でも少しは弱い部分があると思います。だから、自分はメンタルが弱いからダメなんだとか、つらい経験から立ち直れずにいるからダメだ、とか思う必要ないんです。ほとんどの人が周りに見せていないだけなので。その話はまた今度ということで…

この長い長いnoteを最後まで読んでくれたあなたが、あなたのことを大切に思っている人がいることに気づけますように。あなたが大切に思っている人に、大切に思っているということがちゃんと伝わりますように。

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