
ケアマネジメント考3~「意志」概念に抗して
第2章 「意志」概念と新自由主義的自己責任論
1.「意志」概念にまとわりつく「責任」
(1)「意志」概念と帰責性
何かを「意志」決定し実行した場合、その行為が他者に迷惑などを掛けることとなれば責任が問われます。「意志」は責任を生み出す母でもあるのです。「意志」概念には「責任」がまとわりついているのです。
國分功一郎(哲学者)さんによると、英語には「責任」に該当する言葉が二つあるといいます。一つはimputability(インピュタビリティ)でもう一つはresponsibility(レスポンシビリティ)です。
・imputability(インピュタビリティ)は「帰責性」と訳され、「罪や欠陥などをある人に帰属させる」ことを意味します。
・responsibility(レスポンシビリティ)はresponse(レスポンス)つまり応答に由来し、目の前の事態に自ら応答(response)するということです。
「帰責性」は法律の根幹をなす概念で、引き起こされた罪の帰属先を確定するものです。「意志」概念に「責任」概念がまとわりついていると言った場合の「責任」は「帰責性」という意味です。つまり、「意志」概念は「帰責性」を問う法的な概念なのです。
(参照:國分功一郎2021『「他利」とは何か』集英社新書p174~176及び國分功一郎2021千葉雅也・國分功一郎「言語が消滅する前に」幻冬舎新書p194)
國分功一郎さんは「意志」概念と「責任」概念との結びつきを次のように説明しています。
意志を、何ごとかを開始する能力として理解している。だからこそ、この言葉に基づいて責任を考えることかできる。ある行為が過去からの帰結であるならば、その行為をその行為者の意志によるものと見なすことはできない。その行為は、その人によって開始されたものではないからである。
「意志」は何事かを開始する能力です。そして開始する能力である「意志」によって行為がなされるからこそ、「責任」を問われることになるのです。
意志の概念は責任の概念と強く結びついている。このことは「意志」が、その日常的用法においても何ごとかを始める能力として思い描かれていることを意味している。何らかの行為を自らの意志で開始したと想定されるとき。その人はその行為の責任を問われるのである。
「責任」を問われる行為をした場合には、そこには「意志」があると遡及的に認識されるようになると思います。
責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。
普段は「意志」なんてあまり意識などしていないのに、「責任」があると判断された瞬間に遡及的に「意志」が出現するというところに「意志」概念の特徴があるような気がします。
ケアマネジメントでいえば、利用者がサービスを選択した途端に、遡及的にそこには「意志」があったとされるのです。
(2)「意志」決定支援と新自由主義
なぜ、ケアマネジメントに「意志決定支援」、「意志」という概念を用いるのでしょうか。それは、法的な権利主体として当事者を位置づけるとともに、その当事者の「責任」「帰責性」を問える体制、つまり自己責任体制を明確にしておく必要があるからでしょう。
当たり前のことなのですが、サービスを選ぶ権利があるのは当事者だけで(自己決定権)、その選んだサービスが悪い場合でも、「そのサービスを選んだのは、あなたです」と言える仕組みが必要なのです。
そして、問題があれば「お嫌でしたら別のサービス事業者にしましょうか」と、また新たな「意志」決定を迫ればよいのです。「意志」の過去やしがらみにとらわれない性質を生かして未来志向で行けばよいのです。
また、「意志決定支援」は日本政府が推進する個人の自己責任を重視する新自由主義との相性も非常に良いのです。新自由主義が徹底された社会では、自由な「意志」決定ができ、自己「責任」を果たせる「自立」した人間像が推奨されています。
さらに、介護の目的は「自立」というのが日本政府公認の考え方ですが、この介護の目的も新自由主義的価値体系に親和的です。
「意志」「責任」「自立」という三位一体的な基本概念で構成される「意志決定支援」としてのケアマネジメントは、新自由主義的価値を基にした社会保障の一翼を担う思想的ツール(tool:道具)に他なりません。
2.「帰責性」の過剰がもたらすエビデンス主義
(1)帰責性過剰の現代社会とエビデンス主義
現代社会では「帰責性」を意味する「インピュタビリティ(imputability)」が過剰に強調され過ぎていて、「帰責性」に追い回されて、さまざまな事態にレスポンス(対応)できないでいるように思います。
例えば、職場で何か問題があっても、その問題への具体的対応を放っておいて、誰が悪いのかと責任追及(帰責性)するような雰囲気、組織風土になっていませんでしょうか。問題はさておいて責任を追及する雰囲気が強くなっているように思うのです。
國分功一郎(哲学者)さんは次のように指摘しています。
いまはインピュタビリティが過剰になって、それを避けることにみんな一生懸命だから、レスポンシビリティが内から湧き起ってくる余裕がない。
現代社会は応答としての責任、つまり「レスポンシビリティ(responsibility)」ではなく、「帰責性」を問う責任(imputability)ばかりが強調される時代です。カスタマーハラスメントが問題になっていますが この背景にも帰責性を問う風潮があるのではないでしょうか。
この過剰な「帰責性」の基盤、要因に「意志」概念があるのだと思います。「意志」決定は責任・「帰責性」を明確にする際に不可欠な法的概念だからです。
そして、この「意志」概念がもたらす「帰責性」の過剰、厳格化にともなって生じてきたのがエビデンス主義です。しかも、このエビデンス主義は責任回避の手段となっていると千葉雅也(哲学者)さんは指摘しています。
状況によって判断することの難しさと責任から逃れようとしていると思うんです。その意味で、エビデンス主義も法務的発想と同じように責任回避に使われやすい。
さらに、國分功一郎さんも、「意志」概念がもたらした過大な責任を負わせる社会がエビデンス主義を招来させたとしています。
意志概念に基づいて、個人に過大な責任を負わせるシステムを作ったら、逆説的にそのシステムを信じている人ほど、この過大な責任を避けたいと思うようになった。その結果としてエビデンスだけに従うマインドが出てくる。責任主体を立ち上げようとしていたがゆえに、エビデンスやルールに従うことでその責任を回避するという無責任な社会が出てきてしまう。
(2)エビデンス主義・科学的介護情報システム(LIFE)批判
「意志」概念がもたらした過大な責任を負わせる潮流がエビデンス主義を招来させたのですが、介護の世界でもエビデンスに基づく介護が脚光を浴びています。エビデンスに基づく介護とは科学的介護情報システムLIFE(Long-term care Information system For Evidence)に代表される科学的介護のことです。
科学的介護とは、要介護者の自立支援や重度化防止につながることなどが、数字データなどの客観的なエビデンスによって認められた介護サービスのことです。厚生労働省では、「科学的に自立支援等の効果が裏付けられた介護サービス」とも説明しています。
エビデンスに基づく介護、科学的介護は2021年導入のLIFEにより介護報酬上の加算算定(科学的介護推進体制加算)と相まって介護現場を席巻しつつあります
※ LIFE導入1年後の2022年4月LIFEのユーザー登録は、特養が9 割程、通所系が7 割程、特定施設は5 割程。
(参照:2022年4月「加算算定状況等調査 結果の概要」公益社団法人全国老人福祉施設協議会)
エビデンスに基づく介護は、まったく根拠のない介護よりは良いに決まっています。しかし、良いことだけではなく問題もあるのです。
千葉雅也さんはエビデンスについて次のように指摘しています。
多様な解釈を許さず、いくつかのパラメータで固定されているもの。もちろん代表的には数字です。それに対して言葉というものは。解釈が可能で、揺れ動く部分があって、曖昧でメタフォリカルです。エビデンスにはメタファーがない。
※パラメーター(parameter):変数または媒介変数のこと。物事の条件や基準を示す指標。
※メタファー(metaphor)」隠喩 白い肌を「雪の肌」と言うなど。
さらに、國分功一郎さんも次のように指摘しています。
エビデンス主義には・・・・非常に少ないパラメータだけを使って真理を認定するので、個人の物語を無視するわけです。
また、エビデンス主義とは科学主義の別名です。
木村文(社会学者:ハワイ大学マノア校社会学部教授)さんが指摘する科学主義の問題点はエビデンス主義にも言えるでしょう。
科学主義とは、本来、多層的であるはずの事象を科学だけで解決できるかのように矮小化することを言います。
科学主義のもうひとつの落とし穴として、数値化やデータ化できない事象が周縁化されていく点があげられます。
紹介した木村文さんの科学という言葉をエビデンスに置き換えると次のようになります。
「エビデンス主義は、本来、多層的であるはずの事象をエビデンスだけで解決できるかのように矮小化してしまうし、数値化やデータ化できない事象が周縁化されてしまう。」
(3)介護に効率性を求める新自由主義
新自由主義に染められた社会ではこのエビデンス主義は効率的なものとして歓迎されています。何故なら少ないパラメータで自動的に判断が可能となるからです。介護の世界でもエビデンス主義(EBC:Evidence・Based・Care)に基づき科学的介護情報システムLIFEを導入するのは、生産性向上、効率化のためです。
しかし、実際の介護では数値化できない事象、つまり、個々人のナラティブ(narrative物語)、経験、主観、感情、気分が大切なのです。それをエビデンスという限られたパラメータ(parameters:変数)だけを参照項目として介護し、その介護の質を判定するのは、人間の矮小化、介護の矮小化だと思います。
今後、介護現場では、ますますLIFEに重きが置かれ、現場の介護記録などのデータをAIか解析し、フィードバックされた分析結果が介護の評価とされるようになるでしょう。そして、現場へのフィードバックは問答無用のアドバイス、指示となり、個々の当事者の経験や物語、実存は無視され蔑ろにされるようになります。
AIは介護労働者の構想(精神労働)を取り上げてしまい、介護労働者はもう、考える必要はなくなります。AIの指示とおり働けばよいのです。
労働における構想の問題は以下のnoteをご参照願います。
そんな、一面的で軽薄な介護を日本式介護として胸を張る、恐ろしい近未来を想像してしまいます。このまま行けば、近々、エビデンスに基づきケアプラン(居宅サービス計画・施設サービス計画等)をAIに作ってもらうことになるでしょう。そのようになれば、当事者の自己決定権など無視され、「意志」批判など古き良き時代の話になってしまうかもしれません。
繰り返しになりますが、エビデンスに基づいた科学的介護が悪いと言っているのではありません。エビデンスだけに頼る介護は、障がい高齢者のほんの一面しか捉えられないので、薄っぺらく、当事者が疎んじられてしまうのではないのかと危惧しているのです。
國分功一郎さんの次の指摘も介護の世界にも当てはまることだと思います。
エビデンス主義が掲げる科学主義は宗教的なものの危険性に対して極めて敏感であるわけですが、他方でそれ自体が狂信的になっている感がある。・・・エビデンス主義そのものが宗教みたいになっていのではないか。
介護の世界でもエビデンス主義、LIFEは大切ですが、エビデンス主義、LIFEを宗教にしてはいけないと思います。
整理すると、「意志」概念は、ケアマネジメントにおける「意志」決定をする当事者(利用者)にも「意志」決定支援をする専門家たちにも以下のような影響を与えかねないということです。
当事者 ⇒「意志」決定 ⇒ 帰責性 ⇒ 自己責任 ⇒ 新自由主義
専門家 ⇒「意志」決定支援 ⇒ 帰責性 ⇒ エビデンス主義・科学主義 ⇒ 生産性向上 ⇒ 新自由主義
こうみると、「意志」決定なるものは、新自由主義を支える一つの神話・フィクションだと言えるのかもしれません。