意志決定はフィクション!ー意志決定批判 Ⅱ
3.意思決定支援=当事者主権≒自己責任論=新自由主義思想
(1) 「意思決定支援」導入までの経緯
「意志決定支援」という概念はそんなに古いものではないようですが、なぜ、「意志決定支援」という概念が福祉・介護の世界に取り入れられることになったのでしょうか。
木口恵美子(鶴見大学短期大学部, 保育科, 准教授)さんは、障がい者の意志決定支援の導入の経緯等を次のように概観しています。
・2008年、応益負担制度に危機感を強めた障がい者本人や家族が全国8ケ所の地方裁判所(最終的には全国14ケ所)で障害者自立支援法違憲訴訟を起こしたが、2010年には厚生労働省と原告団・弁護団の間に合意が成立した。
・また、2011年には障害者基本法の改正、2013年には国連障害者の権利条約が批准された。
木口恵美子さんは『この一連の障害者制度改革の中で「意志決定支援」が着目され、日本の法制度にも組み込まれた・・・』と指摘しています。
(参照・引用 木口恵美子2014「自己決定支援と意思決定支援-国連障害者の権利条約と日本の精度における「意思決定支援」-」)
(2) 法的概念としての意思決定支援
障がい者運動等や権利条約批准、障害者基本法等の法整備上の必要により「意志決定支援」が着目され始め制度化されていく時期が、J-哲学が「意志」概念に取組んでいた時期(2010年代)と合致していることは興味深いです。
※ J-哲学は以下のnoteをご参照願います。
また、「意志決定支援」は基本的に法的概念であることがこの過程をみると透けて見えてきます。
國分功一郎さんも、障がい者支援、精神障がい者支援の歴史を振り返り、患者、被支援者(障がい者)が治療・支援における決定プロセスから排除されていた状況から「意志決定支援」へと転換してきたと指摘しています。
いずれにしても、「意志決定支援」は決定プロセスから排除されていた人々が、自己決定権を取り戻すという成果であるということは評価すべきことです。
(3) 責任逃れのための意思決定支援
しかし、決定プロセスへの参加を実現するために「意志」概念が必須だったのでしょうか。いずれにしても「意志」という概念に凭れ掛かり過ぎてしまったという國分功一郎さんの指摘はポイントを突いていると思います。
そして、國分功一郎さんは「意志決定支援」が治療する側や支援する側の責任回避の論理に取り込まれてしまっていることも明確に指摘しています。
國分功一郎さんは、「意志決定支援」についてインフォームドコンセント(informed consent) と同様に、結局は新自由主義的な自己責任論が背景にあるとし、「意志決定支援」はある意味、専門家の責任逃れにも使われていると指摘しているのだと思います。
(4) 「意思決定支援」は諸刃の剣
福祉・介護における「意志決定支援」という概念は当事者の主権回復を支える概念であり評価すべきなのですが、その当事者主権の基盤にある「意志」概念は|諸刃《もろは》の|剣《つるぎ》です。
「当事者主権=当事者の意志決定=当事者の自己責任=支援者の無責任」という構図になってしまう怖れがあるのです。
結局、当事者の主権回復を目指して用いられた「意思決定支援」という概念は当事者の自己責任を追求する新自由主義的思想に絡め取られてしまっているのではないでしょうか。
再度、図式化すると・・・
「意思決定支援 = 当事者主権 ≒ 自己責任論 = 新自由主義思想」
ということになると思います。
4.「意志」決定はニーズの忘却に陥る
(1)ニーズがケアマネジメントの始点
ケアマネジメント(居宅サービス計画)が単なる介護サービスのパッケージ(package)の提案・提供に堕している、という批判があります。なぜ、このようなことになってしまうのでしょうか。
当事者(障がい高齢者)のニーズが福祉・介護・ケアマネジメントの始点です。
しかし、このニーズを当事者が「意志」決定するという言い方は不自然だと思います。ニーズにはもともと社会的側面があるので、自分だけで決めれるような性格のものではありません。
ニーズについては、当事者本人が「了解」「納得」できるか、できないかということなのではないでしょうか。
そして、当事者が了解、納得したニーズに基づいてどのようなサービスをどのように利用するかという「意志」決定のプロセスは次に来るはずです。
簡略化してプロセスを示せば・・・
「当事者のニーズ確認・了承・納得 ⇒ 支援者からの選択肢の提示 ⇒ 当事者の意思決定 ⇒ サービス利用」 ということになります。
(2)「意志」決定は過去との断絶
さて、本来的に未来志向である「意志」決定は、過去の経緯や色々な経過、出来事、他者からの影響等々からの断絶を前提とします。
過去やしがらみに引きずられて、または他者から強い影響を受けて、または強いられていたのでは、「意思」決定したということ言えません。
どのようなサービスを利用するかを「意志」決定する場合は、過去の経緯に影響されずに、他者から強いられることなく「意志」決定されなければならないのですが、ここに「意志」決定を強調することにより過去の経緯やニーズなどの諸事情から断絶されてしまう可能性があるのだと思います。
本来的に未来志向である「意志」決定という言葉を使う限り、そのニュアンスや含意から、過去の要因の集積、他者との相互関係の総合であるニーズが軽視されてしまう、忘却されてしまう怖れがあると思うのです。
(3)サービス中心主義
そして、始原のニーズを忘却した結果、選択され、提供されるサービスがケアマネジメントの中心となってしまい、ケアマネジメントとは端的にソリューション(solution:解決策)として、サービスを選ぶ「意志」決定ということに堕してしまう怖れもあります。
因果関係で言えばニーズが原因でありサービスがソリューション(解決策)、結果なのですが、これが逆転し、現状の提供可能なサービスに合わせてニーズ(原因)が創作されてしまう怖れも出てきます。
もちろん、上述のニーズの軽視、忘却は「意志」決定した当事者だけではなく「意志」決定支援したケアマネジャーたちをも巻込むことになります。
(4)ケアマネジメントはサービス利用支援
端的に言えば、「意志」決定モデルのケアマネジメントは、サービス利用支援ということになってしまう可能性があります。
よく、ケアマネジメント(居宅サービス計画)が福祉用具貸与、訪問介護、通所介護、短期入所等々のありきたりなサービスパッケージ(service package)に陥ってしまう問題が指摘されますが、これもケアマネジメントがフィクションに過ぎない「意志決定支援」とされ、「意志」の忘却機能、思考排除機能により、ニーズを忘却し思考停止した結果、サービスパッケージの形式的、形だけの「意志決定支援」となってしまっているのです。
ようするに、人は「意志」概念に引きずられ、過去の経緯や心身状況等の集積、他者との相互関係の総合であるニーズを軽視し、忘れやすくなるのです。
ハイデガーの言葉を思い出しましょう、「意志することは忘れること」です。
(5)意志はフィクション
人は言葉の枠組みに思考が縛られてしまいます。
ケアマネジメントにおいては、「意志」決定という言葉から自由になる必要があると思います。
ないしは、「意志」概念を批判的に捉える必要があるのです。
そもそも、「個人が自由に物事を選択していて、その背景に意志があるというのはフィクションに決まっている。」のですから。
(引用:國分功一郎2021千葉雅也・國分功一郎「言語が消滅する前に」幻冬舎新書p193)
フィクションでしかない「意志」をケママネジメントに導入したことで思考が縛られ誘導されてしまいます。
やはり、ケアマネジメントの中核であるニーズを引き立てる用語、例えば「ニーズ形成支援」と言い換えた方がケアマネジメントの本質に根差し、サービス決定至上主義(とにかくサービスさえ選べば良い)に陥ることを防げるのではないでしょうか。
このnoteはシリーズになっています。