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トランプ・斎藤元彦現象~分断化された時代でも対話は可能か?~
1.代替的現実(alternative facts)に生きる人々
アメリカでトランプ氏が大統領選に勝利したことにより、米国の政治状況はさらに分極化し、分断が深まっていると感じられます。この政治的、社会的な分断は、政治的価値観よりも現実認識の相違に起因しているかもしれません。つまり、人々が認識している世界自体が異なっている可能性があります。
竹田ダニエル(ジャーナリスト)さんは次のように指摘しています。
「アメリカが分断されている」という議論は、日本でもよく耳にする。保守や中道、リベラル等、各々が個人的な価値観をもとに政治的思想を持ち合わせており、それらが対立することで社会の分裂が生じている、というふうに日本のメディアでも形容される。
しかし実際には、政治的立場に関係なく、多くの人々が自分にとって都合のよい、「オルタナティブ(代替的)な現実」を信じることを選択し、その影響が政治に及んでいる。
竹田ダニエルさんによると、2024年9月のカテゴリー4のハリケーン「へリーン」で大災害に遭ったときにでさえSNS上では「オルタナティブファクト(代替的現実)」、つまり陰謀論が盛り上がったと言います。
歴史的な異常気象を引き起こす原因である環境破壊には目を向けず、「政府が嵐を人工的に生み出している」といった陰謀論が、右派の間でSNS上で大いに盛り上がった。世界トップの環境科学者たちによる二〇二四年の「気候の現状」報告書では、「私たちは不可逆的な気候災害の瀬戸際に立っている」として、地球上の多くの生命が危機に瀕していると警告が出ているにもかかわらず、だ。
多くの人々が既存メディアではなくSNSからの情報に頼るようになってきています。私もそうですが・・・
新聞は高くて買えない、読まない。
マスコミではなくマスゴミだと思ってしまう。
テレビは下らない、嘘ばかりつく。
そんな状況下では、人々はSNSに飛びつくしかないように思います。
しかし、SNSには大きな陥穽があると竹田ダニエルさんは指摘しています。
・・・これらのSNSを使っていると、自分の意思で情報を探しているように思い込むが、実際にはアルゴリズムによってプラットホームやその所有者に都合のよい情報が与えられているだけだという事実に気づきにくい。
つまり、客観的な真実を探そうとしても、「他の誰かを犠牲にしてでも、一部の人にとって都合のよい物語」を作り出すことで金儲けをしている人々によるコンテンツを目にすることになる。信じるかどうかは別として、辛い現実を逃れるために、もしくは辛い現実を他の誰かのせいにするために、都合よく解釈することが社会に浸透してしまっている。同じ社会で生きていても、共有する「現実」が同じでない限り、「分断」は深まるだろう。
アメリカだけではなく、世界中、そして日本でもこのような「オルタナティブファクト(代替的現実)」の潮流に流されているように思います。
格差社会の進行により、生きていくのが精一杯で、客観的・科学的な現状認識に興味も持てず、陰謀論に代表されるような「オルタナティブファクト(代替的現実)」を生きている人たちとの対話がますます困難になってきていると言えそうです。
こうした科学的事実にもかかわらず、地球の未来を考えない人々、または考えていたとしても「気にしない」「どうでもいい」とみなす人々と対話することは、どんどん難しくなっている。
「現実」の捉え方の乖離が広まるほど、双方への憎しみや無理解も広まる。
2.石丸伸二・斎藤元彦現象
2024年7月の東京都知事選挙での石丸伸二氏は、多くの若者たちに支えられ大躍進しましたが、伊藤昌亮(成蹊大学文学部教授)さんは石丸氏の躍進の一因となったのはそのネット戦略、とりわけネット動画戦略だと指摘しており、石丸氏のTikTok動画の内容分析の結果を紹介してくれています。
伊藤昌亮さんは石丸伸二氏のネット動画の主要な内容は、「老害批判」「マスメディア批判」「若者応援」の三つだと指摘しています。
内容的には「老害批判」と「若者応援」は一つのコインの裏表でしょう。自分たちを苦しめているのは老人たちで、この老人を排除することが若者たちを応援することにつながるのです。
また、石丸伸二氏の動画の内容にはほとんど政治的要素、政治的な語彙が含まれていないとのこと。
彼の「応援メッセージ」の特異さだろう。政治家のメッセージであるにもかかわらず、そこでは政治的な語彙が一切使われておらず、政見や政策が語られることもない。
代わって語られているのは、勉強の仕方、話し方のコツ、仕事のテクニック、受験や面接の豆知識など、各人が日常的な課題をうまくこなしていくためのノウハウのたぐいだ。自己啓発書に書かれているような内容であり、実際、「気づき」「感動」など、そうしたジャンルにありがちな表現もよく使われている。また、そもそも「ためになる」というリスト名自体が自己啓発書を思わせるものだろう。
『世界』2024年9月号収録の記事を、増補のうえ特別公開
若者たちが熱狂する石丸伸二氏のメッセージが、なぜ自己啓発的語彙に溢れているのか、やはりそれは若者のおかれている厳しい社会状況によるのでしょう。伊藤昌亮さんは次のように的確に指摘しています。
彼らの多くは世の中のことにまで気がまわらず、「自分自身がよく生きる」ことだけに汲々としている。いいかえれば「世の中をどうこうする」よりも「自分を何とかする」だけで手一杯になっている。
低成長の時代しか知らず、社会全体が成長していくというイメージを持ちにくい彼らには、その一員であるだけでは成長できないという感覚があるのではないだろうか。つまり社会の成長戦略は当てにならず、それに乗っていてもジリ貧になるばかりなので、自己の成長戦略が別途必要だ、というわけだ。その結果、「社会のよき一員」になるよりも「よき自分」になることが重視され、自己啓発的な意識が高まる一方で、社会的なものへの関心が薄らいでいく。
若者の自己啓発志向、自己啓発オタク化は、新自由主義的価値観、ネオリベ的要素、つまり競争社会をいかに勝ち抜くことが大切であるかという思想が着実に刷り込まれた結果とも言えます。
こうして近年、とくに若者世代の意識の中には、自己啓発的な志向と結び付きながらネオリベラルな考え方が浸透してきたのではないだろうか。ただしそれは、市場競争を勝ち抜いていこうとする者にありがちな強者の論理などではない。むしろ弱い立場に置かれた者が自らの身を守り、何とか生き残っていくための精一杯の手立て、いわば頼りないサバイバル術だ。
競争社会を生き残るサバイバル術としての自己啓発志向は社会や政治に期待を持てない若者たちだけではなく、「中年世代」にも広がっているようです。
かつての社会では、若者とは一時的な存在だった。つまり不安定で流動的な存在、社会の中心部に腰を落ち着ける以前の「周縁的人間」だと捉えられていたが、一方で中年期になると、どこかに足場を見つけ、そうした状態から脱すると考えられていた。
しかし今日の社会では、とりわけ雇用の問題から、不安定で流動的な状態からいつまでも抜け出すことのできない人たちが多い。彼らは「周縁的人間」のまま、成長と自己実現のための機会を十分に与えられることもなく、その結果、そのための欲求をいつまでも持ち続けることになる。いわば「永遠の若者」だと位置付けることができるだろう。今回、石丸氏を支持した中年世代の中には、そうした人たちも多かったのではないだろうか。
2024年11月17日の兵庫県知事選挙でも、斎藤元彦氏が石丸伸二氏と同様の旋風を起こしています。YouTube、X、TikTokなどのSNSで多くの熱狂的な支持者が斎藤氏に賛同を示し、「いいね」や喝采を送っています。街頭演説でも多数の聴衆を集め、一部の支持者は斎藤氏の批判者に対して暴力を振るう事態に至っていて熱狂的・狂信的な選挙運動でした。
石丸伸二氏への熱狂的、狂信的な潮流が巻き起こったにも関わらず、2024年10月27日の衆議院選挙の投票率は53.85%で戦後3番目に低い投票率だったと言います。日本人の約半数は政治や社会には興味も持てない、自分の生活とは関係の無いことだと思い込んでいるようです。
熱狂と無関心が同居している今の社会状況をどの様に考えたらよいのか。 政治的分断、現状認識の相違を乗り越えて、「われら/やつら」を乗り越えて対話する可能性があるのでしょうか。
3.対話の可能性
朱喜哲(哲学者)さんは、日本においても政治的分断、分極化が浸透してしまっていると指摘しています。
「われら/やつら」という政治的分断の感覚は、日本社会においても深く浸透していしまっているように思われる。
政治的分断、分極化は「保守」と「リベラル」の対話の不可性として理解できると思います。
トランプ氏の再選を考えると、私の感覚では、米国の共和党に代表される伝統的価値観を重要視する「保守」が復興し、民主党に代表される、多様性や個々人の人権を重要視する「リベラル」が凋落してきているように感じます。
ものすごく単純化してしまっていますが・・・「ネオリベ(新自由主義)」という言葉は生き残るでしょうが、「リベラル」は死語になってしまうかもしれないと危惧しています。
朱喜哲さんも次のように記しています。
「リベラル」が一種の蔑称や悪口として、非難や中傷の対象にさえなってしまっていることを知っている。それらは曰く、リベラルを自認する者たちは自分たちの側に無謬の「正さ」を前提としており、現実の「正しくなさ」を見出しては一方的に糾弾し、裁く権利を有しているかのような傲慢なふるまいをしているのだという。
欧米の思想である、リベラリズム( liberalism)は、個人の自由と平等な権利を重視する政治思想で民主主義や人権といった現代社会の基礎となる概念を生みだしました。
しかし、ガザでのジェノサイドへの欧米諸国の対応を見る限り、民主主義や人権はイスラエルを含む欧米人のみが享受できるということを大前提としていることが明白になってきています。
独断的で他者に対して不寛容で権威主義的なリベラルはもう地に堕ちてしまい、民主主義や人権といった価値の普遍性までもが疑問視される時代になってしまっているようです。
保守とリベラルの対話不可能性は保守だけのせいではなく、リベラル側にも責任があるように思います。
それでは分断されている「われら/やつら」の対話の可能性は全くないのでしょうか?
まず、リベラリズムの普遍主義、独善性、権威主義を避けることは大前提となるでしょう。
朱喜哲さんによれば、なんらかの「不正義」についての一致を見出すことや、一人ひとりの互恵性(助け合い)などが手掛かりになるようですが、詳しくは、是非、朱喜哲さんの『「われわれリベラル」を再考する』(『世界』2024年12月号)をご一読して頂ければと思います。
私の交流範囲が極端に狭いからでしょうが、私の身近には極端な「保守」やネトウヨや特定政治家の信者はおりません。ただ、社会や政治にほとんど関心のない人はおります。
日々、仕事に追われていますが、美と健康、気晴らしのゲーム、ちょっとした楽しみがあれば、別に政治や社会に関心を寄せなければならない理由は見当たらないのでしょう。日々の生活で手一杯なのです。
そんな身近な人との政治や社会についての対話はむずかしいのです。そもそも対話相手が興味のない話を切り出すのは場違いというか…話が続かないと言うか…
私たちは政治的な議論に慣れていません。慣れていないと言うより政治ということがわかってないのかもしれません。全ては政治的なのにも関わらず、日常生活と政治がつながっているという感覚を持てないのです。
4.2024.11.17斎藤元彦ショック
兵庫県知事選挙で失職した斎藤元彦氏が1,113,911票も獲得し再選しました。
驚きましたが「やはり」という気もしてます。百万人以上もの支持を得たのです。百万人以上ですよ!日本のトランプ現象を目の当たりにした感じです。
2024年11月17日の兵庫県知事選挙での約100万人超の熱狂、狂信は日本社会の転換点、メルクマール(Merkmal:目印、標識)となる日、記憶に残すべき日かも知れません。
権力者が被害者、弱者を装い、熱狂的な民意によって復権したのです。兵庫県の100万人超の方々と私の観ている現実が全く異なっているのです。
それでも「われら/やつら」の対話の可能性を模索していくしかありません。