
「本人らしさ」を大切にする介護 No5(終)~贅沢で「使用価値」重視の介護
13.「本人らしさ」=「私はこれが好きなんだ」
(1)「楽しい」とは享受の快
「楽しい」とか「楽だ」という事態の中に「本人らしさ」「自分らしさ」つまり個性が宿っているのですが、介護の現実は、日常のすべての活動を「必要-目的-手段」構造のなかに閉じ込め、自立という目的に還元される生となっていることが多いのです。これでは、とても人間的で豊かな生とは言えません。
國分功一郎さんも次のように指摘しています。
人間の生がそのあらゆる地帯を目的‐手段連関によって占領され、目的とは無関係である享受の快のための地帯が失われれば、そこに現れるのは、享受の快を剝奪された生に他ならない。あらゆるものが目的のための手段とされる生である。
國分功一郎さんの上記の文章中の「享受の快」を「楽しみ」「喜び」と読み替えることができると思います。
人生の黄昏時を「本人らしく」「楽しく」「楽に」「ゆったりと」生きるためには、目的に縛られ手段化された「現在」から離脱しなければならないでしょう。
「目的のために何かを犠牲にすることのない人生、行為を何らかの目的のための手段をみなすようなことの決してない人生」
「本人らしく」生きるということは、自立とかいう未来の目的に向けたインストゥルメンタル(手段的)な「現在」ではなく、コンサマトリー(即自充足)な「現在」を生きることでしょう。
「本人らしく」生きることは、「ゆったりとした」「リラックスした」「心躍る」「楽しい」経験に結び付いているものなのです。
純粋に味わうために食事をし、楽しむためにレクレーションをする。心を休めるため、心躍らせるために音楽を味わう。
「享受の快」とはただ単に、楽しむために楽しむことではないでしょうか。
人生の黄昏において「心躍る」「楽しい」「ゆったりとした」経験ができる、そんな介護サービスを利用したいものです。
(2) 普遍性がない=固有性
「好きだ」とか「楽しい」には普遍性がありません。普遍性とは誰にでも当てはまるということです。「私は〇〇が好きだ」には普遍性がないので、すべての人が「〇〇を好きにならなければならない」ということはないのです。だからこそ「好きだ」とか「楽しい」ということが「本人らしさ」、つまり、人間の個別性、固有性、個性に直結していると言えるのです。
この辺の事情については國分功一郎さんは、次のように説明しています。
「俺はこれが好きなんだ」という判断には、まったく普遍性はない。しかし、そのように断言できる人間は、自分に固有の意味を持っている。その人は、享受の快の受け取り方を知っている人間である。自分に固有の趣味をもつ人間は、何もかもを目的のための手段と見なす病的な日常から抜け出して、快適なものを享受する術を知っている。また、享受の快を経験したからこそ、それを自らの楽しみだと知ることができるとすれば、享受の快は、その人間に固有の趣味をもたらすものであるとも言うことができる。
「私はこれが好きなんだ」という普遍性のない純粋で恣意的な想いこそが「本人らしさ」「私らしさ」なのだと思います。目的に汚染されていない端的な「好きだ」「楽しい」「リラックスできる」「おちつく」という「快適なものの享受」「享受の快」を経験できるように配慮することが「本人らしさ」を大切にする介護ということなのでしょう。ここで言う 「享受の快」というのは、ただ単に享受することだけが目的だということを表現した言葉です。
14.贅沢を尊重する介護
(1)「本人らしさ」を尊重する介護は「贅沢」を尊重する介護
「本人らしさ」の根底には、普遍性のない、主観的、恣意的な「享受の快」、つまり「楽しさ」とかがあると考えられます。しかし、公的介護保険制度の下での介護では、このような、ただ単に「好きだ」とか「楽しいとか」とか「快適だ」とかいった主観的に過ぎない欲求は社会的承認を得られないことも多いでしょう。
介護サービスを受けている人の「楽しさ」「享受の快」などは、介護保険の範囲外であり、「贅沢」極まりないものであり、無駄で不必要なものです。
「本人らしさ」を尊重する介護とは「贅沢」な介護ということかもしれません。
確かに「贅沢」は無駄で不必要なものです。國分功一郎さんも次のように指摘しています。
贅沢とは何か。それは必要の限界を超えた支出である。
この場合、必要とは人間が生存していくために最低限なくてはならないものを意味している。必要を超えた支出なのだから、贅沢は不必要である。・・・
つまり、もっと強い言葉を使って言えば、贅沢とは無駄である。
「本人らしさ」を尊重する介護を考えるとき、この無駄で不必要な「贅沢」とは何かについて考えてみる必要がありそうです。
(2)贅沢は消費ではなく浪費
國分功一郎さんは単に人間が生存していることと、人間が人間らしく生きることを区別するためには「贅沢」という概念が必要だと指摘しています。さらに、この「贅沢」という概念を捉えるために同氏はフランスの哲学者、ジャン・ボードリヤール[1](Jean Baudrillard)の「消費」と「浪費」の概念を紹介しています。
実際、どんな社会でも豊かさを求めたし、贅沢が許された時にはそれを享受してきた、とボードリヤールは言っています。あらゆる時代において、人は買い、所有し、楽しみ、使った。「未開人」の祭り、封建領主の浪費、19世紀ブルジョワの贅沢・・・他にもさまざまな例が挙げられるでしょう。・・・贅沢を享受することを「浪費」と呼ぶならば、人間はまさしく浪費を通じて、豊かさを感じ、充実感を得てきたのです。
豪勢な食事とか仕立てのよい衣装等のいわゆる「贅沢」とは、人間の生存にとっては必要でないもの、何らかの限界を超えた支出であり「浪費」ですが、限界を超えて物を受け取るわけですから「浪費」は満足をもたらします。そして、満足したら「浪費」は止まります。
それでは浪費とは違う消費とは何か。國分功一郎さんはボードリヤールの消費概念を次のように紹介しています。
『20世紀になって人間は突然全く新しいことを始めた、とボードリヤールは言います。それが「消費」です。』
『浪費には終わりがある。ところが、消費には終わりがありません。なぜか。浪費の対象が物であるのに対し、消費の対象は物ではないからです。消費は観念や記号を対象とするものだとボードリヤールは指摘します。』
『消費において人は物を受け取らない。食事を味わって食べて満足することよりも、その食事を提供する店に行ったことがあるという観念や記号や情報が重要なのです。そして観念や記号や情報はいくら受け取っても満足を、つまり充満をもたらさない。お腹がいっぱいになることはない。だから止まらない。』
具体的に言えば、「消費」とは、例えばブランドを買いあさったり、ミシュランガイドに載って飲食店を食べ歩いたりするようなことです。買っているのは「ブランドを持っている」という観念・記号であり、「有名店で食事した」という観念・記号なのです。
國分功一郎さんは人間らしい生に必要なのは「消費」ではなく、目的なるものからの逸脱であり、「浪費」としての「贅沢」だとしています。
「楽しんだり浪費したり贅沢を享受したりすることは、生存の必要を超え出る、あるいは目的からはみ出る経験であり、我々は豊かさを感じて人間らしく生きるためにそうした経験を必要としているのです。必要と目的に還元できない生こそが、人間らしい生の核心にある。」
「人が贅沢をするのは、それがよろこびをもたらすからです。美味しい食事を食べるのは、それが美味しいからです。贅沢は何らかの目的のためになされるものではありません。」
「贅沢」とは何らかの限界を超えた支出であり、人間の生存にとっては必要ではないものですが、「贅沢」は豊かさや充実感を感じるためには不可欠なものなのです。この「贅沢」を「本人らしさ」と読み替えることは可能でしょう。
「本人らしさ」を尊重する介護 = 「贅沢」を尊重する介護
「本人らしさ」を尊重する介護とは、介護保険制度の限界を超えた介護であり、人間の生存にとっては必要ではないものですが、「本人らしさ」を尊重する介護は当事者(お年寄り)が豊かさや充実感を感じるためには不可欠なものなのです。
すべての活動を「必要-目的-手段」構造のなかに閉じ込めたり、目的に還元したりせず、次のような人生を目指したいと私は思います。
「目的のために何かを犠牲にすることのない人生、行為を何らかの目的のための手段をみなすようなことの決してない人生」
「贅沢」を尊重する介護、「本人らしさ」を尊重する介護は、未来の目的に向けたインストゥルメンタル(手段的)な「現在」ではなく、コンサマトリー(即自充足)な「現在」の豊かな生き方を支援するものです。
当事者それぞれの「贅沢」「好き嫌い」「嗜好」を洞察し、生活を潤おす「贅沢」を取戻すことができなければ介護施設などにおける「剥き出しの生」[2]は今後も続いていくことでしょう。
人生の黄昏において「心躍る」「楽しい」経験ができ、落ち着いてリラックスできる「本人らしさを」大切にしてくれる「贅沢」な介護を誰もが望んでいると思います。
15.使用価値を大切にする介護
「本人らしさ」を尊重する介護は資本主義社会の中で日常生活全体が手段化されていくことへの抗いでもあると思います。
つまり、「本人らしさ」を尊重する介護、消費ではなく「贅沢」を尊重する介護は資本主義社会の中で日常生活全体が資本増殖、金儲けのために手段化され、生産性向上とか効率化とかが叫ばれている昨今の殺伐とした現代社会へのささやかな抵抗でもあります。
つまり、「贅沢」を尊重するということは、すべての商品、サービスを交換価値、お金で測るのではなく、制作物やサービスの基盤にある使用価値に光を当てることでもあります。すべての商品がお金で測られる現代社会にあって、サービス商品を純粋に直接的に「楽しむ」いう経験、「享受の快」は「使用価値」への気づきにつながっていると思います。
使用価値(value in use, use-value)とは、物やサービスの持つさまざまなニーズを満たすことができる有用性を指します。
斎藤幸平(哲学者)さんは介護労働の特性を使用価値に見ています。
ケア労働の部門において、オートメーション化を進めるのはかなり困難である。ケアやコミュニケーションが重視される社会的再生産 の領域では、画一化やマニュアル化を徹底しようとしても、求められている作業は複雑で多岐にわたるため、イレギュラーな要素が常に発生してしまう。このイレギュラーな要素はどうしても排除できないため、ロボットやAIでは対応しきれないのである。これこそ、ケア労働が「使用価値」を重視した生産であることの証である。例えば、介護福祉士は単にマニュアルに即して、食事や着替えや入浴の介助を行うだけでない。日々の悩みの相談に乗り、信頼関係を構築するとともに、わずかな変化から体調や心の状態を見て取り、柔軟に、相手の性格やバックグラウンドに合わせてケースバイケースで対処する必要がある。」
この「使用価値」を大切にする介護とは「贅沢」を大切にする介護でもあり、「本人らしさ」を大切にする介護なのだと思います。
今だけ、自分たちだけ、お金だけの現代社会において「本人らしさ」を大切にする介護は違う社会構想への入り口に在るものかもしれません。
また、現代に至るまで多くの方々の努力と犠牲によって、人種や性別、国籍、宗教、価値観など、さまざまな属性、多様性を持った人々が共存している状態、ダイバーシティ(diversity)が培われてきました。
この多様性の許容、寛容が「本人らしさ」を大切にする基盤となっています。
しかし、今、アメリカでは、トランプ2.0がこのダイバーシティを否定し打ち壊そうとしています。日本でもこのような多様性を認めない不寛容な風潮が急速に広まっていくと思われます。
だからこそ、「本人らしさ」を大切にする介護が、今、必要なのだと私は思っています。
介護労働と資本主義については以下のマガジンを参照ください。
[1] ジャン・ボードリヤール(Jean Baudrillard、1929年~2007年)は、フランスの哲学者、思想家。『消費社会の神話と構造』(1970)は現代思想に大きな影響を与えた。ポストモダンの代表的な思想家。
[2]剥き出しの生とはジョルジュ・アガンベン Giorgio Agambenの言葉
以下のnote参照
『「本人らしさ」を大切にする介護』はシリーズです。