[読書メモ] 二千年紀の社会と思想② / 見田宗介 大澤真幸
名づけられない革命をめぐって 新しい共同性の論理
西暦1001年~2000年(11世紀~20世紀)における社会と思想から、次の三千年紀に向けた創造を促す書籍。第二章では、日本の社会学者である見田宗介と大澤真幸の対談形式で新しい共同性について語られるが、文章だけでは非常に難解だったので図や表にして理解を深めた。
グローバリゼーションとユニヴァーサライゼーション
近代の世界的な高度経済成長を経て、化石燃料が有限であることを認識することに始まり、地球環境のあらゆる価値の有限性を再認識するところまで人類はようやく到達した。これを正視して(見て見ぬ振りをせずに)、人類が思想的成長を遂げるためには何をすべきかという問い。
国境を越えた貿易や投資、技術(特に情報通信技術)の進歩、人々の移動の拡大によってグローバリゼーションは確実に進んできた。一方で、共通の価値観やルールを異なる社会間で醸成することが殆どなかったため、ユニヴァーサライゼーションは十分には進んでこなかった。
公共圏は家族や親族の様な信頼関係で成立しやすい。ルール圏は異なる環境の他者同士で合理的な関係を成立させる仕組み。この相互に影響し合う関係性をうまくバランスすることが良い社会を形成する基本思想だと説いている。
交響するコミューンの自由な連合
コミューン的なものをゲマインシャフト(Gemeinschaft)、最適社会的なものをゲゼルシャフト(Gesellschaft)と言い換えられる。近代化のためにはゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ段階的に移行することが良しとされたが、見田氏はこれを否定している。
『ゲマインシャフト(共同態)・間・ゲゼルシャフト(社会態)』は『Gesellschaft of Gemeinschaft(共同態の社会態)』と解釈するとわかりやすい。
自由意志に基づかない共同体や集列体ではなく、自由意志に基づく交響体や連合体になることを推奨している。例えば、政略結婚のような家族関係は共同体的だが、自由意志に基づく婚姻・家族関係は交響体的と言える。また、学校や会社に所属することは集列体的だが、自分の意志で学校や会社と類似の団体やグループに所属することは連合体的と言える。また、交響体と連合体のバランスも自由意志によって決めることができる。
・テーゼ:ドイツ語でthese。論文の中で提示される主張や議論の中心となる部分
共同体は家族や親族以上の規模になってしまうと暴走しがちということ。
<□・間・ゲゼルシャフト>としての国際関係
ゲゼルシャフト的な社会性を求める国家の一員になるために、ゲマインシャフトと類似した共同性を求められるという逆の現象が発生する例。
・ネーション(nation):国家や民族。一定の領土や政府、そして人々が共有する文化やアイデンティティを持つ集団
・遡行(そこう):流れをさかのぼっていくこと
ゲゼルシャフト的な国家がゲマインシャフト的な共同性を求めることは、『ゲゼルシャフト・間・ゲマインシャフト』に遡行している状態と言える。さらに、国際関係における国家はゲゼルシャフト(共同態)に位置づけられ、国際社会がゲマインシャフトに位置づけられる。この場合は『ゲマインシャフト(国家)・間・ゲゼルシャフト(国際社会)となる。
市民社会の共有価値(Shared Value)
ルール圏を成立させるためには、公共圏がそれ(ルール圏)を支える構図が正しいとされていた。実際に特定のドメイン(国家など)では、信仰などの共通の価値観によって社会システムがこの構図で成立していた。
一方で、国家を超えた万人が納得できる共通の価値観が見いだせれば、その価値観に基づくルール圏が実現しうるということ。国際的な共通の価値感として、SDGsの共通的な目標・目的がそれを担うかもしれない。
共存の『アポカリプス』
・アポカリプス(apocalypse):黙示あるいは天啓。暗黙のうちに意思や考えを示したもの
先に記述した「国家を超えた万人が納得できる共通の価値観」と同じ。この価値観を持つための認識や感覚は、古代の哲学の上位概念である「善く生きる」ことに通じる観念かもしれない。
グローバル化と共同性
確かに全世界の人々は、個々の国がひとつに統一されることは無いと考えているし、望んでもいない。だからこそ、国際連合やEU(ヨーロッパ連合)のように、統一ではなく統合(連合)による共同体を作っている。
・統一:ある勢力のもとに違ったものを一括りにして内容も同じにまとめること
・統合:ある勢力のもとに違ったものを一括りにするがそれぞれの自主性は残すこと
宗教観の共通項や、比較的狭い範囲の土地を持つという共通項をもつEUの国々(ネーション・ステート)は共同体における兄弟のような存在。
揉めることなく富の再分配が行える範囲が、道徳共同体の範囲と言える。核家族のような小さなユニットであれば道徳共同体は機能しやすいが、国のような大きなユニットでは万人に納得感ある形で機能させることがとても難しい。
エゴイズムを超える可能性と現実
ここでの個体は、人間という生物的な個体のこと。遺伝子の主観で見れば、確かに人間は道具でしかない。遺伝子が利己的であるという考え方は、人間の主観によるものだと言われれば確かにそうかもしれない。
これは実感としてある。自分が子供だった時は親の世代の事は全く理解できなかった。一方で、現代の子供は親の世代の状況をある程度理解しているし、親も子供の世代の感覚をある程度理解しているように思う。
時間的にも空間的にも感覚の差異が縮小しているのに、自他の感覚の違いが拡大しているように感じる現代社会は改めて興味深い。多様性という言葉は、ある意味で自分と他人の違いを強調し過ぎて本来人間が持っている共感力を鈍化させてしまう側面もあるかもしれない。
古代ギリシャ民主主義の限界
・退潮:潮がひくこと。盛んだった勢いが衰えること
文化や哲学が隆盛を極める一方で、民主主義の弱点が浮き彫りになるのがこの時代。民主主義が民主主義すぎた(反民主的な理念を受け入れることができなかった)ことによってソクラテスは刑死したと言える。
スモールワールド・セオリーによる連帯
6次の隔たり(Six Degrees of Separation):社会的ネットワーク理論(分析)で証明されている法則のひとつで、世界中の誰かと繋がるには平均で6人の隔たり(間隔)があるというもの
「六次の隔たり」は、知らない人でも六人の知人を辿れっていけばその人に繋がることを示している。
スモールワールド・ネットワークは、ランダムな隔たりを追加することでより現実社会に近いモデルを形成している。
スモールワールド・ネットワークの偶然性を、現実社会で意図的に入れ込むことでより大きな共同体(共同体の共同体)ができる可能性があるということ。そのためには、個々の共同体同士の共通項を導き出せる繋ぎ役の存在が必要になる。
ゲマインシャフトの開放性
後述の文章で見田氏は異議を唱えているが、多様性の受け入れ方の例示としては一理ある。
多様な文化や性質を受け入れる際、内心では異質な事物に対して敏感に反応しているのだが、外面で出来るだけ無関心に振舞おうとする挙動を取ることはよくある。
COTENの深井龍之介氏は、「人間社会においては正しいかどうか」よりも「コンセンサス(合意・同意)が得られるかどうか」が重要であると発言をしている。
何が正解かは後になってみなければ判らないし、ある時点での正解があとで正解でなくなることもある。正解が一定ではない社会においては、コンセンサスが大事になるのは必然と言える。
六〇億人の未来
・グローバル資本主義:国家間の障壁を取り除き、自由化を推し進めた資本主義の国際化のこと
60億人の人口は増えすぎて、30億人程度を妥当とする社会人類学者もいるらしい。一方で少子化の課題もあるので、人口の年齢層のバランスを考えると成田悠輔氏の「高齢者は集団自決すればよい」という過激な発言に繋がったりもする。
Society 5.0が標榜する人間中心社会の実現によって、人間の労働力は減らせるかもしれないが人間の生活資源を維持する課題は残ってしまう。