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[読書メモ] バカの壁

バカの壁

東京大学名誉教授・医学博士 養老 孟司氏による新書の大ベストセラー。人間の脳に焦点を当てて、政治・教育・宗教などの様々な角度から、現代の人間の頭の中にそびえ立つ壁(バカの壁)について評論している。説明の切り口が多様で、一つ一つの事例が分かりやすい。「知る」ことに注力しすぎて「考える」ことを疎かにしがちな現代人が、自身の戒めのために読むべき良書である。

自分が何でも知っているという勘違い

現代においては、そこまで自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。皆が漫然と「自分たちは現実世界について大概のことを知っている」または「知ろうと思えば知ることが出来るのだ」と思ってしまっています。

バカの壁|P.19

スマホで検索すれば出てくる世の中では、自分が何でも知っていると勘違いしてしまう。検索すれば知りたい情報が取り出せるが、それは自分が「知っている」ことにはならない。

「沢山の雑学」≠「常識の理解」

膨大な「雑学」の類の知識を羅列したところで、それによって「常識」という大きな世界が構成できるわけではない。しかし、往々にして人はそれを取り違えがちです。

バカの壁|P.22

検索して出てきた結果に対して「考える」という処理をしないと、自分自身の身に付かない。結果的に検索したことをすぐに忘れてしまうことが往々にしてある。

個性や多様性の強要

今の若い人を見ていて、つくづく可哀想だなと思うのは、がんじがらめの「共通了解」を求められつつも、意味不明の「個性」を求められるという矛盾した境遇にあるところです。

バカの壁|P.45

【共通】
二つまたはそれ以上のもののどれにも通ずること、あてはまること
【了解】
さとること。会得すること。また、理解して認めること。

広辞苑 第七版

若い人には個性的であれなんていうふうに言わないで、人の気持ちが分かるようになれというべきだというのです。むしろ、放っておいたって個性的なんだということが大事なのです。みんなと画一化することを気にしなくてもいい。

バカの壁|P.69

社会的に頭がいいというのは、多くの場合、結局、バランスが取れていて、社会的適応が色々な局面で出来る、ということ。逆に、何か一つのことに秀でている天才が社会的には迷惑な人である、というのは珍しい話ではありません。

バカの壁|P.128

家族、学校、会社など、大小の社会の中では「共通了解」が求められる。暗黙知なものもあれば、形式知として規則やマニュアルやルールとして明文化されているものもある。暗黙知の類では「共通了解」から外れると、いわゆる「空気が読めない」ということになる。
何らかの社会に帰属する上では「共通了解」は必須だが、「共通了解」から外れることを強要する類の「個性」が人々を混乱させている。
同種の植物や昆虫には個性がない(少なくとも人間から見るとそう見える)が、同種の犬や猫には外見的にも内面的にも個性がある。人間にも同様に外面的・内面的な個性が既にある。既にあるのだから、必要以上に個性や多様性を求めても仕方がない。

自分自身が不変であるという勘違い

近代的個人というのは、つまり己を情報だと規定すること。本当は常に変化=流転していて生老病死を抱えているのに、「私は私」と同一性を主張したとたんに自分自身が不変の情報と化してしまう。

バカの壁|P.55

いい例が名前です。現代では名前を一切変えなくなりました。昔は、幼名から元服して、名前を頻繁に変えていった。「名実ともに」という言葉はその状態がよく出ている。つまり、人間自体が変わるものだという前提に立っていれば、名前は本人の成長に伴って変わって当たり前なのです。

バカの壁|P.62

自分は常に変わり続けて良いのだと考えることは非常に重要。自分が子どもだった時の感じ方と、大人になってからの感じ方は違う。それはそれで良い。外見や内面が不変であり続けなければいけないという思い込みは、精神的な成長を阻害する。

自分自身が変化すること

桜が違って見えた段階で、去年までどういう思いであの桜を見ていたか考えてみろ。多分、思い出せない。では、桜が変わったのか。そうではない。それは自分が変わったということに過ぎない。知るというのはそういうことなのです。

バカの壁|P.60

人間の精神によって、見え方が変化する分かりやすい一例。ただ「見る」ということから「知る」ことができるようになる。普段は意識しないことを意識することによって、本当にその事物を知ることに繋がる。すべては興味を持つことから「知ること」に繋がる。

こころとからだ

戦後、我々が考えなくなったことの一つが「身体」の問題です。「身体」を忘れて脳だけで動くようになってしまった。

バカの壁|P.88

なぜ寝ている時間が無いのか。寝ている暇を勿体無いと思うのか。それは、無意識を人生のなかから除外してしまっているからです。意識が中心になっている証拠なのです。

バカの壁|P.117

「学習」というとどうしても、単に本を読むということのようなイメージがありますが、そうではない。出力を伴ってこそ学習になる。それは必ずしも身体そのものを動かさなくて、脳の中で入出力を繰り返してもよい。

バカの壁|P.94

学習はインプットとアウトプットの両方を行う必要がある。
赤ん坊のハイハイから始まり、自転車や水泳、車の運転に至るまで、身体を動かして出力しなければ出来ないことはとても多い。哲学者・池田 晶子氏も、精神と身体の関係性を非常に重要視していて、片方しか見えていない、あるいは分離していると考えている現代人に警鐘を鳴らしている点で本書と共通している。

社会の価値観

社会全体が一つの目標なり価値観を持っていたときには、どのような共同体、または家族が理想であるか、ということについての答えがあった。それゆえに、大きな共同体が成立していた。

バカの壁|P.108

あくまでも共同体は、構成員である人間の理想の方向の結果として存在していると思います。「理想の国家」が先にあるのではない。

バカの壁|P.108

戦後、高度経済成長期の日本のような社会全体の共通目標、ベクトルが見出せないことが現代社会の共通課題。人間の「共通了解」に基づいて、「理想の社会」をイメージすることが求められる。

現実と仮想現実

実の経済と虚の経済を区別しないと、よくわからないうちに、お金は動いていますよと言われ、ああそうかと騙されているうちにエネルギーはどんどん消費され、そのうちに地球環境が破壊されていく。

バカの壁|P.191

実の経済は、現実に影響を与える。虚の経済は、仮想通貨に始まりメタバースへと発展するかもしれない。便利・効率的になる一方で、実の経済に影響を与えうるポイントはしっかり把握しておかなければならない。

勘違いが作り出すバカの壁

バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。

バカの壁|P.194

一元論と二元論は、宗教でいえば、一神教と多神教の違いになります。一神教は都市宗教で、多神教は自然宗教でもある。

バカの壁|P.195

安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真実がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。

バカの壁|P.204

一元論は答えが出しやすく、二元論は答えが出しづらい性質がある。答えは環境変化や時間の経過で変わることもあるが、人間は一度答えを出すとそれで満足して、それ以上に考えること・考え直すことをしない。
「自分は何でも知ることができる」「自分は頭だけで何でも習得できる」という勘違いこそが「バカの壁」である。

人間の良心への期待

「人間であればこうだろう」ということは、非常に簡単なようで、ある意味でわかりにくい。それでも、結局、そいうしていくしか道は残っていないはずだ、と思うのです。

バカの壁|P.203

哲学者・池田 晶子氏も、「良い」「悪い」の観念は、本来人間に「共通了解」として備わっているはずだと説明していたように思う。良心は誰しも持っているはずと言う根拠を示すことは難しいが、確かに「人間であればこうだろう」という良心に期待するしかない。


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