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『枕草子』朗詠 第四段「子を法師に」
少しばかり、同情的な段です。
この時代、貴人でも複数子どもができたら、一族内の守護と繁栄祈念のため、男の子を入寺させることがよくあり、
特に、妾腹や、母の身分が低くて認知の及ばない男児は、幼いうちから出家させることが多かったようで、
一族間で決められていても、大切に可愛がってきた子を、つらい場所へと手放して行かせねばならないのは、端で見ていても気の毒なことです。
ましてや、幼いうちから修行の道に入らねばならない子のほうでも、入寺後は御曹司でもなく、甘えのきかない立場になったということで、
寺での生活だけではなく、僧形であれば、周囲の見る目も厳しく、
若い男性の身で禁欲を強いられ、ちょっとでも浮わついたように見えたら、本人がどうであっても非難されるし、
修験者ともなると、さらに厳しく、調伏の祈祷などで、消耗し疲れ果てて寝落ちしてしまっても、「居眠りなんかして怠けて」なんて批判され、
窮屈で心休まる隙もないだろうなと。
けれど、それもすでに昔のことで、今はもっと気安いようだ……と、締めくくり、
あとの段でも語られることがあるように、この時代の寺や僧侶は、貴族女性にとり、別次元的な好奇心感覚で見られていたようでもあります。
とはいえ、現代では生臭坊主なんて言われる人もいるものの、
やはり、今も僧形の人は、礼節も規律も正しく人格者らしくふるまわねば信頼されないし、
車も通っていない、三歩ほどで渡れるような小さな通りを、急いでいるからとたまたま赤信号で渡ったら、どこかしらで見られていて、ずっと非難されていたという僧籍のかたの話を聞いたことがありました。
仏門に入る、聖職者となるというのは、覚悟も心得も大変なことなのは変わりないし、そうでなければ務まらないということです。