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『枕草子』朗詠 第二十段「中宮を囲む宮中の思い出」 三/五・円融院の御時に
私は研究以外では、古典も英文も、直訳ではなく、読んで楽しむ理解のために訳文を書くのが好きなので、
この場でも、そっくりそのままではなく、こんな雰囲気だろうと異訳も含めて、大筋を書きます。
ちなみに、中宮が語る逸話なので、男性の語りも低音で歌っていません。
***
主上や、大納言藤原伊周もいる場にて、
定子中宮に、思いつく和歌を連想して書くように命ぜられ、
常になくあたふたとあれこれ惑い、春の歌・花の心など逡巡していたら、
上座の上臈女房が二つ三つ書いて、「これにお書きなさい」と寄越した紙には、
「年ふれば 齢は老いぬ しかはあれど 花をし見れば もの思ひもなし」
という古今和歌集の歌がありましたので、
その「花をし見れば」を、「君をし見れば」と書き換え、
それを中宮様が、他の歌と見比べながら御覧になり、
「そうそう、こういう心がゆかしくてよろしいのですよ」と仰せられ、
そういえばと、
「主上の父君・円融院の御代の御時に、帝より殿上人らに“料紙に歌をひとつ書け”と仰せられたのですが、
みな、たいそう恐縮して辞退申し上げたそうで、
それでも帝が、
“ただもう、字の良し悪しも、歌の季節が今に合わなくてもいいから”
と仰せられ、みなおどおどと書いている中、
今の関白殿、その頃まだ三位の中将であった私の父が、
“汐の満つ いつもの浦の いつもいつも 君をば深く 思ふはやわが”
という歌の末の句を“頼むはやわが”と書きなされたのを、
帝がたいそうお褒め遊ばされたということです」
などと仰せられますのも、
そんなご立派なお話を引き合いになされて、面映ゆく畏れ多く、もうどうしようもなく汗たらたらな心持ち。
若く控えめな人だったら、こうも書けないような図太さだったかと、我ながら思ったものです。
このような畏れ多い場では、常ならば、とてもよく書ける人も、どうしようもなく皆気後れして、書き損じなどしていました。
***
新参女房ながら、すでに年かさの清少納言の謙遜。
気後れして本領発揮できない中での思いつきを、
定子中宮が、先帝と若かりし頃の父関白の逸話を引き合いにして、絶賛してくれるのを、恐縮し汗だくになっている様子が、
今なら絵文字で(汗)とか、💦とか書きそうな有様に書かれています。
この時の、
〜年ふれば 齢は老いぬ しかはあれど 花をし見れば もの思ひもなし〜
の歌は、『古今和歌集』巻一・52番歌で、題詞に、
「染殿の后の御前に、花瓶に桜の花をささせたまへるを見てよめる」とあり、今、この時の清涼殿の様子をほうふつとさせ、
場にふさわしい歌を上臈が選んで、清少納言に花を持たせる手助けをしてくれたように思われます。
また、
〜汐の満つ いつもの浦の いつもいつも 君をば深く 思ふはやわが〜
は、『万葉集』に「いつ藻の花のいつもいつも」という表現があり、言葉がコロコロと転がるような調子の良い言葉なので、今の時代にも読みやすい歌表現ですが、
この歌自体は出典が不明。
ただ、こうした場で読まれ、言葉の読み替えが理解されるくらいなので、当時有名な歌だったのでしょう。
「いつもいつもあなたを深く心に思い愛しています」という恋歌を、
「いつもいつも、我が君を深く信頼し、お頼み申しております」という、
臣下らしい忠義と忠愛を表す歌にしている機微が、帝を喜ばせたに違いなく、
この場面の時の、中関白家の花盛りの春の隆盛が、この父あればこそという、定子中宮の誇りを表すと共に、
その逸話を引き合いに出されたことで、
清少納言の心よりの、主従を越えた天上の域の忠愛をも、定子中宮がわかってくれている、自分を信じてくれていると、
清少納言が深く感じ入った話でもあるように思います。