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20241016旅記録②『蝉丸』逆髪の道行をたどる〜花の都をたちいでて

能楽に、『蝉丸』という演目があります。

延喜帝の第四皇子とされる蝉丸の宮は、盲目ゆえに出家の身となり逢坂山に捨てられますが、
琵琶の名手ゆえに、蝉丸を慕う源博雅が庵をしつらえ、保護します。
一方、帝の第三子である皇女・逆髪の宮は、生まれながら髪が逆さまに乱れた異形で、物狂いとなって彷徨い、都を離れ出ます。


  『蝉丸』道行

逆髪が都を出る道程が、「道行」として、小謡や仕舞で有名で、
私も、何度も舞い、謡いました。

花の都を立ち出でて 
√花の都を立ち出でて
 憂きねに鳴くか賀茂川や 
 末白河をうち渡り
 粟田口にも着きしかば
 今は誰をか松坂
 関のこなたと思ひしに
 あとになるや音羽山の 名残り惜しの都や
 松虫鈴虫きりぎりすの
 鳴くや夕陰の 山科の 里人もとがむなよ 
 狂女なれど心は 清滝川と知るべし
逢坂の関の清水に影みえて
√今や引くらん望月の 駒の歩みも近づくか
 水も走り井の影見れば
 我ながら あさましや
 髪はおどろをいただき
 黛も乱れ黒みて
 げに逆髪の影うつる
 水を鏡と夕波の うつつなの我が姿や

謡曲『蝉丸』道行

本来は物哀しい場面だと思いますが、
物狂いのていのためか、
「花の都を〜」と歌いだし、仕舞も動きが多く、謡も調子がいいためか、
どこか浮かれ歩いているような印象で演じ歌っていました。

  貴種流離の東への道行はここから

「道行」は、枕詞や歌枕と共に、要所要所の地名を歌うことで、道標をたどるように、
和歌の上、能舞台などの限られた時空間内で、観念的に異界へ移動させる技法で、
すでに上代歌謡、『万葉集』柿本人麻呂なども長歌に採り入れています。

謡曲では、姫宮でありながら零落のていで、都を落ちていく、道行。

能でいう狂女というのは、本当に気が触れているのではなく、
毛筋がきちんと整えられず、乱れているさまを、乱れ心と見なし、
“人心を失した状態”や、“神や妖が依り憑いた”常ならざる有様と見たもの。

この時代にも、生まれつき直毛ではない天然パーマや赤毛の人はいたはずですが、どんなに容貌が美しくても、髪がまっすぐ黒くないと、異形の鬼のように言われたり、卑しげに見做されたりしたようで、
尊い女性に生まれたなら、なおさら、それは心も荒れ狂うほどに悲しかったことでしょう。

幼い頃からそうだったとしても、本当に厳しくなったのは、成年女子となってからという設定なのかな〜と、
学生の頃、漠然と思っていました。
能の逆髪が、大人の女性らしいので、子供の頃はどうしていたのだろうと。

帝を父として生まれても、親王・内親王宣下を受けて身分が定まるので、
母の身分や、境遇により、皇子女と認知されず、記録されない人も、少なくはなかったものと思われます。貴族社会でもそれは通例でした。

蝉丸には、宮ではない別の出自の伝承もあるし、
逆髪の実在モデルがいたかはわかりませんが、
貴種の身の上の流離譚は、やがて神に近いなんらかの言い伝えの祖になることもあるので、

都の地・宮という立場を離れ、
「逢坂の関」の境界に留まった蝉丸と、
関を越えて異界へと旅立った逆髪は、
伝承芸能の世界で、象徴的な伝説になっていたように思います。

「逆髪」というのも、“神に戻る”と解釈できる意ともなるので、
宮中・都に留まれず、流離の神となった、
現世を離れ異界へ向かう、人と神との境界が、
逢坂の関という境界の地を舞台とした物語として、描かれたということなのかもしれません。

そういえば、東京都北区の王子神社の摂社・関神社には、これは逢坂山の「関蝉丸神社」を勧請した社だそうで、
なんと、髪の毛とカツラの神様が祀られています。
なんで?…と、その由来は、
蝉丸が逆髪の姉を憐れみ、かもじを作ってあげたことによるのだとか。

かなり前に参拝してそれを知った時は、そういう信仰にもなってるのかと驚きました。
自分で参った時の写真が残っていないので、参考までに。


  逆髪の道行をたどる


今回、上洛の目的のひとつは、逢坂の関と蝉丸神社へ参ること。

能楽を覚えた学んだ学生の頃から、いつかは訪れたいと思っていたものの、
ずっとなぜか、車でなければ独力で行くのは難しいところだと思い込んでいて…
たまたま最近、大津周辺を調べる機会があり、
実は京都市内を移動するより、よほど行きやすいところだと、今さらわかったという…(^^ゞ

京都駅から地下鉄で、烏丸御池駅乗り換え、京阪電車で琵琶湖・浜大津駅へ向かう路線。
東山〜蹴上〜山科までは地下ながら、
〜賀茂川、白河を越え、粟田口、音羽山、山科〜
と、この路線経路そのものが、『蝉丸』道行をたどっています。
それは道理で、旧東海道、国道1号線。
「ゆくも帰るも」「知るも知らぬも」の歌の通り、今も、人も物流も大勢が行き交う、古来より変わらぬ峠の要所であり、
ここが都と地方の境目。
関所が置かれるに必然の地帯です。

源博雅が、蝉丸を慕ってかよった道。
そして、有名無名、どれだけの人達が、この地を踏みしめて、都に入り、都を離れて行ったでしょう。
今は、車や電車での行き来で、ここに留まって感慨にふけることなどないでしょうけれど、
足で歩いた時、“境界”という地点を実感できます。

蝉丸神社は三社あり、周辺に、逢坂の関にちなむ旧跡が散見されることを、
あらかじめ地図で確認していました。

京阪線の大谷駅を下車。ささやかな無人駅です。
ここまでの電車内も人少なく、降りたのは一組のみ。
さて、私の今日の道行の始まりです。

  ちなみに私の旅は

…ところで、出発から途中までは、電車移動だったので、その場で時系列で旅記録風に書いていたけれど、
足で移動して以降は、その場で書いている暇はなかったので、あとから書いています。

移動距離は大したことないながら、私は一箇所でかなりの時間を過ごすのが常で、
ただちょっと行って帰ってきたというのでは、旅の意味はないと思う主義なのです。

特になんにもない、無人の、注目点がないような、場所が史跡名なだけだというところでも、
かなりの時間、滞在して、その土地にいる“今”を堪能し、空気感を味わいます。

限られた日程と時間で、わざわざ遠出したのに、あちこち巡らないのはもったいないと言われるけれど、
じっくりその土地の風や土のにおいを味わわなければ、遠出の意味はない。

それが、ひとりでフィールドワークをする意義であり、出かけていく甲斐だと思っています。

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