飲み干すように、本を読む
私は、書棚フェチである。
整然と並んだ本棚と、ギッシリと埋め尽くされた本の群れ…本という樹木や草ぐさが立ち並ぶ書棚の森が、たまらなく好きだ。
高校の頃の学校図書室で、一時期、物理や化学など、何が書かれているかわからない未知の分野の本の、背表紙とタイトルを眺め、内容について夢想するのが、好きだったことがある。
物理も化学も苦手教科で、全然理解できないのだけれど、わからなさすぎて、タイトルから想像されるものが、魔法書のようで、ほとんど連想がファンタジーに近かった気がする。
難しそうな本がある書棚の群れは、人もほとんど来ないし、静かだから、ひとりで空想にふけるには最適だった。
もちろん、本は中身を読むのも好きだ。
文字を追いながら、情景を描き出し、人物に同調し、現実にいま自分がいる場所も、時間も、自分が何者であるかも忘れて、その世界にひたりこむのが、たまらなく幸せだった。
夢中になれる本に出会えることほど、至福なことはない。そんなさらなる出会いを求めて、書棚の森をさまよい続けていた。
憧れの図書室・図書館や書店のイメージは、生まれ育った片田舎の頃の風景に留まっている。
都会の大きな施設や店舗と違って、品揃えが限られているし、どことなく地味だったから、隅々まで眺めて、思わぬ発見をするのにちょうどいい規模だった。
最近の図書館は、本が多すぎて閉架が多いので、寂しい。
また、新刊書店の本は、装丁がにぎやかすぎて、雑念でクラクラする。
そして、昔ほど“発見”に出会えなくなった気がする。
子供の頃の、学校や田舎の図書館は、絵本以外は派手な色もなく、ほとんどが表紙を剥いで無地だったので、タイトルだけで空想しやすくて楽しかった。
新しい書籍よりも、ひと昔前の蔵書に発見が多かった印象がある。
とはいえ、育った地方に古書店はなかった。
両親の書架や、親戚や知人、友人の家を訪ねた際、その家の書棚を眺めるのが好きでもあったので、見るものが古い本のことが多かったせいだろう。
大学院時代は、研究者特権で、資料室や大学図書館の書庫に入れたのが至福だった。
古い無骨な専門書が積まれた、薄暗い書庫の森をさまようのが楽しく、そこで背表紙の言葉に囲まれているだけでも、考察が泉のように湧き上がってくる。
デザイン的にも、本の風景が好きで、かつての新潮社文庫のこんな壁紙を、ずっとパソコン画面にしていたっけ。
ところで、なんでこんなことを書きたくなったかというと…
コミックだけれど、最近、『虫かぶり姫』という作品を、偶然知って読んだ。
高貴な美しい令嬢だけれど、傍からは変人にしか見えないほどの“本の虫”のヒロインで、そういう主人公だから、絵の中に、夢のような書庫室・書棚と本の山が描かれている。
その絵を見るだけでうっとりするので、話の中身の王子に愛されてラブラブなストーリーなんかどうでもよく、
ヒロインが広大な蔵書室で、分厚い本を楽しそうに次々に読んで、
非現実にひきこもるのではなく、得た知識を現実社会の諸問題に落とし込んでいく姿に、憧れを覚えた。
私も昔、“図書室の亡霊”と言われたことがあったっけ…書棚の影でうっとりふらふらさまよってばかりいたから。
大人になると、なかなか、ひたすらに本に没入するいとまを持つのも難しくなってしまうが、
私もかつてのように、あのヒロインみたいに、
川の流れに身をひたすように、シャワーを浴びるように、そしてゴクゴクと水を流し込んで飲むように、活字を追いかけて異次元世界にひたりこみ、吸収し、心を潤しながら、本を読み続けたい…と、今、切実に思う。
琴線に触れる本との出会いにいざなってくれる、ふわふわと夢想しながら背表紙を眺めていられる、
そんな図書室に、出会いたい。
そして、私も、誰かに、
出会えて嬉しい…と抱きしめてもらえるような本を“書く人”になりたいと、幼い頃に願ったことが、自分の始まりだったことを、決して忘れたくないと改めて念じた。