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軍神の化身 | 書評『テスカトリポカ』
メキシコで麻薬密売組織の抗争があり、組織を牛耳るカサソラ四兄弟のうち三人は殺された。生き残った三男のバルミロは、追手から逃れて海を渡りインドネシアのジャカルタに潜伏、その地の裏社会で麻薬により身を持ち崩した日本人医師・末永と出会う。バルミロと末永は日本に渡り、川崎でならず者たちを集めて「心臓密売」ビジネスを立ち上げる。一方、麻薬組織から逃れて日本にやってきたメキシコ人の母と日本人の父の間に生まれた少年コシモは公的な教育をほとんど受けないまま育ち、重大事件を起こして少年院へと送られる。やがて、アステカの神々に導かれるように、バルミロとコシモは邂逅する。
メキシコにおけるアステカ神話に登場する神の一人。戦争や争いの軍神、その名は『テスカトリポカ』。佐藤究による、神の名をタイトルにした本作は二〇二一年に直木賞を受賞し、当時多くの反響を呼んだ。
物語は中南米メキシコから始まる。陽気な国民性、リゾート地、豊かな自然と古代遺跡のイメージとはかけ離れたもう一つのメキシコの顔を、読者は本作を通じて知ることになる。陽気というイメージとは裏腹に、麻薬組織同士による縄張り争いから付随する戦争と殺戮が行われていた。汚職を強いられる公務員たちには成すすべもなく、報復を恐れ生き延びることだけを祈る。少女ルシアはそのような日常から逃れるために、これまでの人生と家族を捨てて故郷を後にする。全てはルシアの決意から始まった。
物語の後半、舞台はアジアへと移る。メキシコが麻薬売買の市場であれば、アジアは臓器売買の市場であった。経済的に苦しくなり、自身の臓器を売る者。愛する者の延命を望み、臓器を買う者。需要と供給を繋げる臓器ブローカーに、摘出と移植を行う闇医者。アジアを取り巻く臓器売買ビジネスを手かげる組織は、その拠点を日本へ移していく。
フィクションでありながら現実味に欠けていない本作の根底にあるのは、佐藤究による念入りなリサーチだ。執筆に三年半をかけて多くの参考文献を調べ上げ、取材を行った。長い歳月をかけて描かれた本作は、決してフィクションと言い切ることができないほど緻密に仕上がっている。職業、地位、人種、地名、施設、車種、コロナ、オリンピック。物語に登場する全ての場所と出来事には意義があり、意義があるからこそ他人事とは思えないほどのリアルさが溢れ出す。
深淵を覗きたい好奇心が熱を帯びて、ずっと胸の中で燻っている。それは同時に息苦しさと、戦慄を孕んでいた。軍神の名を持つこの作品が、まるで心臓を鷲掴みにしているかのように。
(佐藤究『テスカトリポカ』角川文庫、二〇二四年)
月一で参加しております文芸実践会の課題で書いた書評になります。今回で書評を書くのは二回目となり、前回よりも何を書きたいのか、何を伝えたいのか、どの層をターゲットにしているのかが自分の中でだいぶクリアになったと思います。
佐藤究氏が描く南米とアジア、日本の裏社会にはフィクションと思わせないほどの緊張感とサスペンスがあります。久しぶりに小説の凄さと読者の想像力を補う文体と描写力に脱帽しました。