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オーバードーズ
夜の空気は湿り気を帯び、肌にまとわりつくようだった。
路地の奥へ進むたび、呼吸が重くなる。
眼下には砕け散ったガラス片がいくつも転がっている。
靴先でそれらを押しのけながら、俺は指定された倉庫へ向かった。
昏い入口の前に立つと、かすかなアンモニア臭が鼻を刺す。
錆びついたシャッターを少しこじ開けると、中はまるで廃墟だった。
だが、その奥には微かに白熱灯の光が漏れている。
その光の先に、約束された“売人”が待っているはずだった。
「遅かったじゃねえか」
電球の下には痩せぎすの男が立っていた。
指先には細いタバコがぶら下がっている。
目だけがぎらりと光り、額には汗がにじんでいた。
「あんたが“ブツ”を手に入れたいっていう客か。
信用できるかどうか、試させてもらう」
そう言いながら男は古びたバッグを足元に置き、その中身をちらりと見せた。
トラッシュメタルのロゴが剥がれた缶、汚れたビニール袋、そして紙の小さなパケット。
「現金は持ってきたか」
俺は迷いをかき消すように頷き、ポケットから封筒を取り出す。
男が封筒の中を確かめると、一瞬だけ満足そうな笑みを浮かべ、それをすぐに拭い去った。
「これで全部だ。
使い方は自分で考えろ。
…あとは自己責任だ」
そう吐き捨てるように言うと、男はパケットを手渡してきた。
外に出ると胸の鼓動がやけに早い。
プラスチックのパケットの感触が、手のひらを熱くする。
街灯の下で僅かに封を開け、中身をそっと覗き込む。
粉末がかすかに香りを放ち、鼻腔をくすぐるようだ。
胸の奥に鈍いざわつきが走る。
ここまで来たら引き返せない。
暗がりに身を寄せ、しけった空気を肺に満たしながら、その粉を吸い込んだ。
すぐに舌先が痺れるような感触が広がり、目の奥がぐっと熱を帯びる。
ふわりと意識が浮き上がり、全身から力が抜けていくようだった。
やがて俺は、その“ブツ”を早く味わいたくて、我慢できなくなる。
サッポロ一番味噌ラーメンのスープの粉──あの茶色い粉が、馴染み深い味噌の香りをはっきりと脳を刺激してきたのだ。
身体はすでに味の虜になっている。
必要以上に塩気を求める舌が、さらなる一袋を欲する。
あたかも禁断のドラッグを追い求めるかのように、俺は次々と粉を口に流し込んでいた。
唾液が絡み合うたび、濃厚な味噌のうま味が脳髄まで浸透してくる。
水も飲まずに繰り返しているうち、こめかみがじんじんと痛み始めた。
血流が勢いを増しているのをはっきりと感じる。
それでも止められない。
もう一袋、もう少しだけ、と手を伸ばすたびに心臓が早鐘を打つ。
やがて舌は麻痺し、咽頭が焼けつくように熱くなる。
その瞬間、激しい頭痛が稲妻のように走り、視界がぐらりと揺れた。
全身の血管が圧迫され、脳の奥で何かが破裂しそうな恐怖が襲う。
悲鳴をあげようとしたが声にならない。
塩分過多のオーバードーズによる高血圧。
脳内で血が滲むような痛みがこだまし、足がもつれて地面に崩れ落ちた。
「やばい…」
そう口の中で呟いた直後、意識が遠のいていく。
目が覚めたとき、薄暗い天井に安っぽい蛍光灯が見えた。
どうやらどこかの病室らしい。
手首には点滴の管が繋がれている。
脳出血の疑いがある、という医師の言葉が遠くから聞こえた。
生きた心地がしないまま瞼を閉じかけたとき、廊下で看護師らしき女性が声を張り上げていた。
「どなたか、患者さんの所持品を預かってきてください。
ええ、これです。
…サッポロ一番味噌ラーメン?
スープの袋が何十個も…」
その声に微かな笑いが混じる。
だが、俺はもう笑えない。
あの背徳感と興奮、そして、取り返しのつかないダメージ。
それらが全部、ラーメンの粉によるものだったと知ってしまったのだから。
入院中は眩暈と倦怠感が何度もぶり返した。
夜になると、病室の薄闇が徐々に重たくのしかかる。
点滴のポールが微かにきしむ音にさえ神経を逆撫でされるほど、苛立ちが込み上げた。
舌の奥が妙にむずがゆくなる。
汗をかきながらベッドでまどろむうち、目の前にあの茶色い粉がちらついた。
「もうやめろ…」
何度そう自分に言い聞かせても、夢の中で俺はカラカラの袋にしがみついている。
舌が塩気を求めて痙攣するように震えている夢を見て、跳ね起きたこともあった。
ある晩、看護師が血圧を測りに来たとき、ちらりとベッド脇のサイドテーブルを見た。
そこには、かつての“ブツ”──サッポロ一番味噌ラーメンのスープの茶色い粉を思い出させる小袋の幻影があった。
もちろんそんなものは置いていない。
だが、頭の中で“あの味”が立ち昇る。
「大丈夫ですか。
ずいぶん顔色が悪いですよ」
優しい声のはずなのに、まともに聞き取れない。
身体中の神経が、粉の不足を訴えているように痛む。
これが依存症なのか、と自嘲するように思った。
退院後、血圧の数値は常に高めで、医者から減塩生活を厳命されている。
あれ以来、俺はスープの粉を一切口にしなくなった。
だが街の片隅には、まだ同じようなブツを求め、血走った目をしてさまよう連中がいるらしい。
そしてあの売人は、いつもの倉庫で相変わらず“純度の高い粉”をさばき続けているという。
きっと誰かが、また同じように“中毒”になり、同じ病室で目を覚ますのだろう。
そう思うとゾッとする。
けれど、その光景を想像したとき、不意に自分の唇が笑いの形を作っていることに気づく。
どうやら俺の舌は、あの日の濃厚な味噌の記憶を、まだどこかで欲しているらしい。
結局、一度覚えてしまった“うま味”は簡単に捨てられない。
それがたとえ、ラーメンの粉だったとしても、欲望は時に命をも食らうのだ。
それを笑う資格など、俺にはない。
なにしろ、あの瞬間を思い出すだけで汗がにじみ、舌が震えるのだから。
そんなある日、退院後の検査に訪れた病院の廊下で、ふと見慣れた制服の看護師がこちらを振り返った。
「あなた、先日は大変でしたね。
もう大丈夫なんですか」
笑みを湛えながら近づいてきた彼女のポケットから、紙の小さなパケットが覗いているのが見えた。
「…それ、何ですか」
俺の声が少し上ずる。
彼女は、まるで秘密を知られた子どものように一瞬動揺した顔を見せた。
しかし、すぐに何でもないというようにかぶりを振り、小さく笑った。
「ただの調味料ですよ。
仕事の合間に、ちょっと…」
そう言い残し、彼女はパケットをポケットの奥深くへ隠した。
その瞬間、鼻先にかすかな味噌の香りが漂った気がした。
茶色い粉が脳裏でざわめく。
足元が揺らぎそうになりながらも、俺は彼女を振り返る。
だが、看護師の姿はすでに人混みに紛れて消えていた。
病院の白い壁を背に、俺はなんとも言えない苦い味を噛みしめる。
この世界には、あらゆる場所に誘惑が転がっている。
そしてそれは、いつだって人の弱みを突いてくる。
重い足取りで出口へ向かいながら、俺は心の奥底で思う。
もしかしたら、次にあの倉庫のシャッターをこじ開けるのは、他でもない自分自身かもしれない。
そう考えたとき、思わず奥歯を噛みしめた。
まるで舌先に、かすかな味噌の塩気が蘇ってきたような錯覚があった。
今度こそ、本当に“やめられる”だろうか。
自分に問いかけても、答えはどこにも見えない。
俺は視線を落とし、色のない病院の床を見つめたまま出口を出る。
ドアを開けた瞬間、夜の空気が再び肌にまとわりついてくる。
まるで「おかえり」とでも言うように。