玉川上水を歩く 1

 かれこれ50年の昔、小学4年の社会科では『わたしたちの東京』という本を使って授業が進められた。その中に「玉川上水」に関する記述があった。江戸市中の人口増大に対し幕府の行った一大インフラ整備事業であり、当時の人々の知恵と工夫と苦労とが描かれてあった(のだろう)。十歳の幼き筆者は、この教材に触発され行動を起こしたのである。
 掲載された水路図によれば、筆者の当時の自宅の近くを通っていたことになる。最寄りの京王線幡ヶ谷駅の南側に古びた空堀があったことはなんとなく知っていた。あれが旧玉川上水に違いない。社会科の本に載っていたものを、実際に見てやろうではないか、秋の放課後、友だちを誘って現地へ行ってみたのであった。
 確かに土の空堀が残っていて、ちょうど京王線と並行するように続いている。幡ヶ谷駅へ続く商店街は、旧水路に橋を架け、古めいた親柱に「二字橋」の文字が読み取れる。橋の反対側にはひらがなで「ふたあざばし」とある。 ‘二字’と‘ふたあざ’は、4年生の理解を越えていたが、旧水路がある、古い橋がある、すなわちかつてこの下を水が流れていたであろう、そのことだけで十分刺激的であった。その想像だけでおおいにうれしかった。我々は迷わず、空堀に沿って遡上を始めた。
 当時は今と違い、旧水路の活用は何も行われておらず、空堀がそのままになっていた。今から思えば水道局の管理作業はあったのか、堤は疎らな雑木林、水路跡は確かに続いてはいた。その水路跡に沿い疎林の中を歩いていくことは子どもの冒険心を満足させるものであった。一つ一つの橋の名と竣工年月日を手帳に記録しつつ歩く。卵の殻が落ちているのを見つけるだけで大喜びなのであった。代々幡橋などという橋名を見れば、おおそうか昔はここは代々幡村だったのだよね、社会科で教わった郷土の歴史を思い出す。
やがて煉瓦の積み上げられた橋のような構造物によって水路が塞がれ、舗装された広い地面が現れた。路線バスが停まっている。おお「我が玉川上水」は悲しいかなバスの折返し所に使われてしまっているのか、雑木林散策を楽しんできた我々にはそれは悲しい風景であった。その先は空堀は姿を消し、遊歩道と化した旧流路にはささやかな遊具やらベンチやらが置かれていたのだった。がっかりしつつも流れの跡が途絶えてしまったわけではない、旧水路沿いに歩けることには違いないのだ、と周囲の風景を楽しむこととする。目の前には消防学校の訓練施設があり、子どもにはわくわくするような眺めであった。
 ふと気が付いた。いつの間にか街区表示板の色が変わっていた。見慣れた渋谷区の紺色の表示板でなく、それが緑色になっていたのである。さすがにドキッとした。目の前に広がる初めて見る景色に、新鮮な出会いに心浮かれ後先顧みずに歩いてきたが、今や自分たちは世田谷区に入ってしまっている。さすがに後ろめたい気持ちにもなる、そこは小学4年生、子どもたちだけで、親にも告げずに、夢中で歩いてきたら、他の区にまで来てしまった、これは慎重にせねば。はやる気持ちを落ち着けつつ進んでいくと、思いもかけぬ光景がそこに広がっていたのだった。
 水音が聞こえる!水の流れる音が聞こえる!
 なんと、ずっとたどってきた旧水路上の遊歩道が途切れ、そこから上流は、また掘割りが現れたのである。のみならず、あろうことか、かなりの量の水流が、上流からその地点まで確かに流れ込んできていたのを発見したのである!
 歓喜か、動顛か、事態を飲み込むのにやや時間がかかった。
 上流から水が流れてきている。その水の音が周囲に響いているのである。そして流れてきた水は、我々がいまたどってきたそこから下流に続く暗渠には流れ込まず、そこに築かれた堰に遮られ、流路右岸の分水口へすべて吸い取られてしまっていたのだ。
 さらに我々を興奮せしめたのが、古びた太鼓橋であった。フェンスに囲まれたその橋には触れることはできなかったものの、擬宝珠も供えた意味ありげな、おそらくコンクリート製であろう小さな太鼓橋、そのかたわらには色あせた社。大きな石碑の文字は漢字ばかりで読み取ることはできなかったものの「三田用水」の四文字は発見できた。なるほど。
 羽村から延々流れてきた水が、いまやここ世田谷区北沢の地ですべて三田用水に流れ込んでいる、その時の筆者はそう理解した。なんという発見、なんという驚き。興奮冷めやらず、流れに沿って遡ると無事渋谷区内に戻ることができ、京王線笹塚駅南側にかかる橋の親柱には「南ドンドン橋」の文字。ワンパク仲間がザリガニ釣りに集まるのがここドンドン川である。なんだ、ドンドン川は玉川上水だったのか。大きな発見の余韻を味わいつつ達成感を胸にしばし開渠の旧水路遡上を続け、再び世田谷区に入って暗渠の遊歩道を行くと環七の騒音に行き当たる。日も暮れる、ここまでとしよう、幼き日の筆者と旧玉川上水路との感動的な出会いの思い出である。

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