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大菩薩峠紀行 7

 本稿「大菩薩峠紀行」ではこれまで、主に机龍之助という人物の足取りを追いながら小説『大菩薩峠』の‘聖地巡礼’を楽しんできた。龍之助が甲斐・大菩薩峠にて老巡礼を斬った場面から順に「甲源一刀流の巻」「鈴鹿山の巻」「壬生と島原の巻」「三輪の神杉の巻」「龍神の巻」と物語が進んできたところである。  次なるは「間の山の巻」という。「間の山」を「あいのやま」と読む。舞台は伊勢、神宮周辺である。お伊勢詣りは今も昔も庶民の願いであり楽しみであり、「一生に一度は…」というフレーズも耳になじんだ

    • 大菩薩峠紀行 6

       30年前の春、紀伊半島ドライブを楽しんだ。名古屋から南下し尾鷲あたりからは熊野灘を左に眺めながら快適に走った記憶がある。那智滝、青岸渡寺を訪ねた日は青い空が気持ちよかった。太地で鯨を味わい潮岬を過ぎて太平洋側にまわり、白浜ではあちこち見物をした。そこから国道311号線、すなわち熊野街道「中辺路」を遡り熊野本宮大社を目指す山間の道。さらに十津川沿いに山また山の景色、国道168号線を上り詰めてたどり着いたのが五條の町。吉野の桜には少し早かったが、明日香をめぐり、長谷寺、室生寺な

      • 大菩薩峠紀行 5

         小説『大菩薩峠』の沼にハマった筆者が、登場人物たちの影を追ってさまよい歩いた“聖地巡礼”記が、この「紀行」である。物語が衝撃的に勃発した山梨の大菩薩峠から起筆し、武州御岳山、港区芝界隈、青梅、本郷等々と訪ね歩いたことを綴ってきた。  江戸市中で前回書き落としたのが神田柳原だった。新徴組の金子という隊士の邸が連中の溜まり場になっていて、机龍之助も宇津木兵馬も出入りしたことになっている。万世橋の下流、神田川右岸の柳原通り近辺のことであろう。事務所の入居するビル街といった印象で過

        • 大菩薩峠紀行 4

           長編小説『大菩薩峠』の冒頭から登場しその後も長々と活躍をする人物は、机龍之助の他にふたりある。ひとりは、切り捨てられた老巡礼と伴に旅をしてきた孫娘のお松である。突然の祖父の死に遭遇し嘆き悲しむお松を、峠に棲む猿たちが寄ってたかってからかうのを、あとから登ってきた四十年配の男が手に持った松明で追い払う。そして峠の惨状をあらため手早く老爺の屍骸を片付けると、お松を背負って武州へ向けて下っていく、これが青梅に住む七兵衛である。  盗賊である七兵衛は、豪商や豪農から奪った金品を貧し

          大菩薩峠紀行 3

           大長編小説『大菩薩峠』は、「甲源一刀流の巻」から始まる。武州御嶽神社の奉納試合で宇津木文之丞を討った机龍之助と、文之丞に離縁されたお浜のふたりは試合の晩、山中から逐電する。  ふたりが次に登場するのは、芝新銭座の長屋、ということになっている。伊豆韮山の反射炉で名高い江川太郎左衛門ゆかりの砲術訓練所があり、その邸内の若者の剣術の指南をするという名目で住み込んでいるらしい。奉納試合から4年の時が流れふたりの間には郁太郎という男の子がいるが、侘しい日影者暮らしの様子である。  

          大菩薩峠紀行 3

          大菩薩峠紀行 2

           『角川日本地名大辞典』には大菩薩峠の位置が次のように説明されている。「塩山市と北都留郡小菅村の境をなす標高1,897mの鞍部。笛吹川の支流日川の源流をなす。北西2kmに大菩薩嶺(2,056m)がそびえ、南は2,000m内外の金沢山系から滝子山(1,590m)に続く。」現在の国道411号線が多摩川の源流部に沿って高度を上げているのとは違い、かつての甲州裏街道—青梅街道は丹波山村の山深い険しい登路であった。武蔵側からこの道をたどり、最も高い地点が大菩薩峠であり、これを越えると甲

          大菩薩峠紀行 2

          大菩薩峠紀行 1

           大菩薩峠といっても、若い方々は、関東で山歩きをする人をのぞけば、あまりご存知ないかもしれない。筆者がそこへ行ったのは35年も昔の秋のことである。あまりに古い話ではあるが、憧憬の地に向かうのに心が高鳴った印象が残っている。  筆者の職種は当時まだ土曜半ドン勤務であり、土曜恒例の午後のサービス残業を、その日に限って早めに切り上げ、荷造りと身支度とにいそしんだ。電車を乗り継ぎ、途中で日が暮れ、中央線下りに無事に乗り、塩山駅からの最終バスを終点「大菩薩峠登山口」で降りた客は筆者ただ

          大菩薩峠紀行 1

          玉川上水を歩く 5

           中学生になった筆者がついに羽村の堰に到達した歓喜の記憶、そして50年を隔ててこの春高井戸~三鷹の再踏査を試みたこと、それらを先月投稿した。これをもって、玉川上水への執着を文字にすることは一区切り、終わりにしようと思った。もう、付け足すことはない、と考えたはずであった。ところが、先日、朝刊一面のコラム(1)に寺田寅彦の文章が紹介されているのを読んだ、読んでにわかに、もう一回だけ投稿をしたい、玉川上水のその後を書きたい、そんな欲求が惹起されてしまったのである。  強い地震のため

          玉川上水を歩く 5

          玉川上水を歩く 4

           筆者がついに羽村の堰に到達したのは、中学校に進学した9月のことであった。玉川上水にとり憑かれて足掛け3年、念願のゴールに達したのである。  ともにゴールインした盟友はN山氏、筆者にもまして玉川上水探検に熱情を捧げた相棒である。なにしろ、小学校卒業の時点で隣接する他県へ転出していた彼はその日の朝、長距離を厭わず三鷹駅へ姿を現し、筆者と共に歩き出したのであった  残念ながら、例によって途中の光景の記憶は残っていない。気の置けない親友との上水歩きを心往くまで楽しんだのであろう。三

          玉川上水を歩く 4

          玉川上水を歩く 3

           半世紀余りも昔の、小学4年生だった筆者の旧玉川上水路遡上探検は、それは刺激的なものであった。幡ヶ谷から代田橋への2km、八幡山までの7km余の歩みが、かけがえのない体験としていまだに心に残っているのである。そして当然さらに探求は続けられたのであった。そう、下村湖人『次郎物語』を手にしたのはそれより後だったろうか、作中に「筑後川上流探検」というエピソードが登場する。それは「無計画の計画」とされる主人公たちの冒険であり、筆者の実践はその足元にも及ばぬ些細なものでしかないが、子ど

          玉川上水を歩く 3

          玉川上水を歩く 2

           小学4年生のわずか2㎞余りの探検は、確かにささやかなものであった。しかし多大な興奮をともなって、知的興味と世界の広がりとを少年だった筆者に味合わせた。これをここで終わらせてはいけない、その先をきちんと見極めたい…。とはいえ全長43kmを歩けるなどとは思わない、兎も角、行けるところまで歩いてみたい、と仲間と相謀って次なる計画を立ててみた。今度は家族にも協力してもらい、休日に弁当を携えて朝から歩いてみよう、とのプランである。水路沿いに行くならば道に迷うこともあるまい、大人たちも

          玉川上水を歩く 2

          玉川上水を歩く 1

           かれこれ50年の昔、小学4年の社会科では『わたしたちの東京』という本を使って授業が進められた。その中に「玉川上水」に関する記述があった。江戸市中の人口増大に対し幕府の行った一大インフラ整備事業であり、当時の人々の知恵と工夫と苦労とが描かれてあった(のだろう)。十歳の幼き筆者は、この教材に触発され行動を起こしたのである。  掲載された水路図によれば、筆者の当時の自宅の近くを通っていたことになる。最寄りの京王線幡ヶ谷駅の南側に古びた空堀があったことはなんとなく知っていた。あれが

          玉川上水を歩く 1

          東武東上線 各駅停車 10

           東武東上線の「特に気になる」九つの駅について書いてきた。  今回は、「やや気になる」いくつかに触れてこの稿を終えようと思う。 中板橋  東上線が初めに開業した1914年、東京都内(当時は東京府)にあったのは、池袋、下板橋、成増の三駅、一か月ほど遅れて上板橋が開設された。次いで1927年に設置されたのがこの駅である。かつての川越街道上板橋宿に近接しているものの、上と下の両板橋の間にある、という程度の意味で中板橋と名付けられたのだろう。  東上線が開通すると、石神井川鉄橋か

          東武東上線 各駅停車 10

          東武東上線 各駅停車 9 上板橋

           東武東上線が池袋~田面沢間で開業したのは1914年5月1日である。それに約一か月半遅れて開設されたのが上板橋駅であった。1914年6月17日のことである。本線開通に駅開業が間に合わなかったのには何らかの都合があったのであろう、駅舎工事に手間取ったのかもしれぬ。  筆者が疑問に思うのは、その位置である。上板橋ときけば、旧川越街道の宿場、上板橋宿を連想する。以前、下板橋駅の稿に「板橋宿(下板橋宿)」と思わせぶりな書き方をした記憶があるが、すなわち下板橋村の宿に対し川越街道上板橋

          東武東上線 各駅停車 9 上板橋

          東武東上線 各駅停車 8 小川町

           霞ヶ関、と言えば中央官庁の集中する国家経営の中枢であることに異論はなかろう。しかし1958年地下鉄丸の内線に霞ケ関駅が開業するまで、霞ヶ関という駅は東武東上線にしか存在しなかった。1930年から名乗っていたのだから、こちらの方がだいぶ先輩である。省庁を訪ね、川越市の方はずれの駅に降り立った人のエピソードを、ひとりならず聞いたことがある。  と、ここまでは前振り。本題は小川町である。1923年11月に東上線小川町駅は開業している。一方、都営地下鉄新宿線の小川町駅開業は1980

          東武東上線 各駅停車 8 小川町

          東武東上線 各駅停車 7 武蔵嵐山

           武州松山延伸の翌月、1923年11月5日にはさらに小川町まで開通している。これに先立つ1920年に高崎-渋川間の鉄道敷設免許が失効しており(寄居-高崎間は1924年に失効)、延伸を急いだものと思われる。武州松山-小川町間に設けられたのが菅谷駅、現在の武蔵嵐山駅である。川越児玉往還に形成された菅谷宿に位置し、当時の菅谷村の玄関口となった。  1928年に「日本の公園の父」と称される本多静六博士が、菅谷村の南を流れる槻川と付近の山波の景色を「武蔵嵐山」と称えたことにより、その美

          東武東上線 各駅停車 7 武蔵嵐山