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あるあるネタで終わらない、ピクサー映画『インサイド・ヘッド2』の凄み。

ディズニー/ピクサー最新作インサイド・ヘッド2が、遂に日本でも劇場公開を迎えた。

本作は2015年公開の『インサイド・ヘッド』から続く2作目だ。
主人公ライリーの高校入学という転機に際し、頭の中の感情たちにも"思春期"の到来が余儀なくされ、新たな仲間が加わる‥‥というあらすじ。

事前の予告やプロモーションの様子から、大変申し上げにくい話ではあるが、いかにも2作目でコケます感が漂っていた…と、わたしは思う。
しかし、どうにも蓋を開けてみれば、昨今のディズニーアニメーションの中では、『アナと雪の女王2』『トイストーリー4』といったビッグタイトルを抑え、圧倒的な興行収入を叩きだしているようなのである。

エンターテイメント大国アメリカの、こうした記録はなかなか面白い。
というわけで早速わたしも、日本公開初日にその全貌をこの目で見てきたというわけだ。

そこには、"あるあるネタ"で終わらない、ピクサーの持つ鋭いバランス感覚の凄みが存分に凝縮されていたのである。

今日は過度なネタバレには踏み込まないようにしながら、新作『インサイド・ヘッド2』の感想・考察をお届けしよう。


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自分らしさの自己理解

前作『インサイド・ヘッド』では、「ヨロコビ」と「カナシミ」の表裏一体に重きを置き、ヒトの感情は一辺倒ではなく、常に喜怒哀楽のそれぞれが相互作用して、大切な"記憶"を創り上げていることが美しい映像表現とともに描かれた。

今作『インサイド・ヘッド2』においては、そんな"記憶"が集合して、遂に"自分らしさ"という名の、その人の「核」が創り上げられる経過が作品全体の大きな主題となっている。

こればかりは、既にアラサーの扉を叩いたわたしですら、未だに思い悩める、ある種人生の課題ともいえるだろう。
自分ってなに?自分はどうしたいの?自分はどう在りたいの?
そういう自己理解というか、自己内対話のようなものを、前作から続く愉快なキャラクターたちのドタバタ会話劇に乗せて物語が進んでいく様は、圧巻としか言いようがない。

ところで最近巷では、MBTI診断をはじめ様々な"自己理解ツール"が幅を利かせている。様々なシチュエーションを想定し、数多くの質問に答えていくと、あなたはこういう人間です、と、世界中の膨大なデータからその人の行動基準や価値基準を教えてくれる、というものだ。
(ちなみにわたしはENFP-Aの広報運動家。ベストな相性はISTPの巨匠型さんらしいです。巨匠型の皆さん、良かったらお近づきになりませんか。)

本作は主人公ライリーの視点を借りて、まさにこのデータ収集の様子を可視化した作品とも言えるような気がする。
ピクサーの強みともいえる「ストーリーテリング(物語を語ること)」を、ある意味では封印したような作りで、2時間の起承転結というより、2時間の中で可能な限りの想定し得る、ヒトの選択や葛藤、成功や挫折を代わる代わる見せていく作りは、前作『インサイド・ヘッド』には見られなかった、ピクサーの新境地のように思えるだろう。

この場合だったらこう、この事態にはこう、と、ライリーの言動に様々な選択肢が見えるようにして描かれる本作は、まさに自分らしさの自己理解を促す、非常に丁寧な作りだ。

しかし一見すると、それは誰にでも起こり得る"あるある"の展開をただ繋ぎ合わせているだけ、とも見えるかもしれない。
だが本作は、その可笑しさをゴールとしていないから凄まじい。

そこには、感情たちのキャラクター性が大きく関わっているようなのである。


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個々の感情の複雑化

本作で初登場をしたキャラクターが、ライリーの思春期突入によって生まれた「シンパイ」「ハズカシ」「イイナー」「ダリィ」の4タイプである。

しかしここでわたしが着目したいのは、この新しい感情たちではなく、生まれながらにライリーの人間性を構築してきた既存の感情たち「ヨロコビ」「カナシミ」「イカリ」「ムカムカ」「ビビリ」の5タイプについてだ。

前作『インサイド・ヘッド』において、わたしがひどく感動したポイントの1つは、それぞれの感情が持つキャラクター性が、どんな場面に展開しようとも決してブレることなく各々の軸を貫いてくれたことだった。

例えば、絶体絶命のピンチ!という場面において、この5つのキャラクターが面白おかしく慌てふためく様が映し出されるも、それぞれに「きっと大丈夫!」と思う「ヨロコビ」、「もう終わりだ…」と嘆く「カナシミ」、「なんでこうなったんだよ!」と怒り狂う「イカリ」、「あーもう最悪。」とうな垂れる「ムカムカ」、「どうしようどうしよう!」とひたすら怯える「ビビリ」‥‥といった具合に、5つの感情が完璧に独立した上で、その心理描写をコメディに昇華させていた点が、とにかく最高だった。

しかし続編にあたる今作では、どうにもこの5つの感情の棲み分けが曖昧なのである。
これは、前作の終わりで「ヨロコビ」と「カナシミ」は常に表裏一体の感情であるということを説いた結果、5つの感情すべてが相互作用的に絡み合うようになったことの表れとして読み取れるのだが、続く今作の中盤では、完全に「ヨロコビ」が悲しんだり、「カナシミ」がビビったり、「イカリ」が優しくなったり、「ムカムカ」が明るく振る舞ったり、「ビビリ」が威勢よく相手を嫌ったりするのである。

極めつけは「イカリ」が放つひと言、「俺にも優しさはある!」という台詞だった。これには正直度肝を抜かれた。ライリーはその成長とともに複雑な感情を持つようになった、とは言ったが、まさかここまでの表現に踏み込んでくるとは。「イカリ」による優しさは、それすなわち「愛の鞭」の根源ではないか…!と思う、本作屈指の名場面と言えるだろう。

つまり、今作は事前のプロモーションを含めて、新たに生まれた4つの感情にばかり着目しがちであったが、本当の変化は彼らではなく、元々ある5つの感情それぞれの深みや幅の広がりと言える。

このミスリードには、わたしもまんまとやられてしまった。
ライリーの成長過程、そのシチュエーション設定には、世界共通の"あるあるネタ"が敷き詰められただけに過ぎないとも言えるが、それらに対応する、いや、適応するべく変化が生じた感情たちの描写には、ピクサーの天才的過ぎるバランス感覚が見て取れる。

感情同士がどちらか一方に支配されることは決してないのに、その活躍の範囲が大きく変わることを表現した2作目は、前作と比較してみても絶対に"作られなければならない作品"だったと言えるだろう。

こればかりは、どうか子供向け映画と言わずに、複雑な感情の発生を一通り終えた大人にこそ、ゆったりとした気持ちで思う存分楽しんでもらいたいものだ。


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自己愛

しかし物語はそれだけでは終わらない。
もちろんここではそのラストのネタバレはしないが、わたしが思うにこの映画は突き詰めていけば「自己愛」という難しさに対する、それを肯定するためのひとつのヒントを与えてくれる作品のような気がしている。

無論ここでいう「自己愛」は、ナルシシズムという言葉に代替できる、自己を性愛の対象とするものの意味ではなく、自分自身とその能力を信頼し、誇りを持つこととしての表現だ。

しかしひと口に「自己愛」だの「信頼」だの「誇り」だのと言っても、その正体を的確に言い表せる人は決して多くないだろう。
その点、本作はとある描写を通じて、この得体のしれない、でも生きていく上でとても重要な感情の育みを、とても繊細な表現で我々に見せてくれている。

その表現がどんなものであるかは、ぜひ劇場で体感してもらうとして、長年ピクサーの大ファンとして作品を見続けているわたしから言えることとしては、ピクサーのお家芸ともいえる「削ぎ落しの演出」で、その美しさがスクリーンいっぱいに映し出されているということだ。

ピクサーは、その原点ともいえる短編映画に始まり、これまでに手掛けた数多くの長編作品のその中で、台詞のない、音楽とキャラクターの動きだけで、複雑な心理描写を表現することに長けたアニメーションスタジオである。

古くは『レッズ・ドリーム』という、サーカスのスターを夢見る売れ残りの赤い一輪車の姿を描いた短編。
近頃でも、『カールじいさんの空飛ぶ家』における涙必至のオープニングや、『トイストーリー3』でアンディとボニーがおもちゃで遊ぶラストシーンなど、ピクサーはここぞ!という心理描写においては、一切の台詞を介入せず、そこに差す光の温かさであったり、影の動きであったり、目には見えない風や匂いや音の存在だけを抽出し、可能な限りの「削ぎ落し」によって情景そのものを描き出そうとしていることが分かる。

思い出すだけで涙ちょちょぎれる。

これは同スタジオの創業者、Appleのスティーブ・ジョブズの信念とまったく重なるものである。より良いものはすべて"引き算"によって出来上がるとするこの思想は、つまるところ今作『インサイド・ヘッド2』においても、かなり重要な概念として我々の目に映ることだろう。

近頃は「自己愛」というと、ひどく自分の存在を誇張し、僕が!私が!と声高に叫ぶことこそが重要視されている風潮があるが、正しくは「僕は」「私は」という、内なる声に耳を傾けるだけでいいはずなのである。

その時に、自分らしさを構成する感情たちは、個々の複雑化した感情たちは、一体どんな動きをしているのか。そこに見るピクサー史上最高ともいえる「削ぎ落し」の一幕にぜひ注目して欲しい。
『インサイド・ヘッド2』は、単なる"あるあるネタ"で終わらない、観客への問いかけこそが、その最たる魅力だと感じたのだが、皆さんはどう思うだろう。

ぜひ、日頃多くの感情をひた隠しにしてしまう大人たちも、この映画における2時間くらいは、その感情をむき出しにして、どっぷりとピクサーの魔法にかかってみるのも面白いかもしれない。

モンスターズ・インク』『カールじいさんの空飛ぶ家』『ソウルフル・ワールド』、そして前作『インサイド・ヘッド』と、その優し過ぎてずるい、温かすぎて憎い作品作りの天才:ピート・ドクター。
彼の新作『インサイド・ヘッド2』が、皆さんの期待を裏切らない1本であることは、それまでのピクサー映画によって自己形成された、このわたしが保証しよう。

監督、かわいい。





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