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辛い体験はそのままで保管しない

 ウラジミール・ソローキンの『青い脂』を読んでいるのですが、これがとてもなくしんどい。辛い。もう辞めたい。いや、ただの読書なので意味が分からんと一蹴してしまえばいいのだけれど、どうもそれは性に合わないし、つまらないならつまらないで何故つまらないのかを理解したい。どんなメディアにも言えるけど、辛い体験をただただ辛かったと規模を小さいものとして保管しておきたくない。体験を補完するのであればせめて、理由ぐらいは付随してほしい。
 右に述べた性格はかなり難儀な性格だなと思う。言ってしまえば、最後まで付き合うのは時間の無駄だと切り捨ててもいいものに対して、身を粉にして向かい合っているからだ。最後まで絶対に付き合うぞ、という強固な意志ができあがったのだろうか。多分、自分が選んだものは絶対に何かあるはずだ!という感情がこれを形成させたのだろうか。そう考えると、読んだもの・観たもの・聴いたものをただただつまらないと切ってしまうと、その感情を裏切ることになりかねないような気がする。その裏切りを続けてしまうと、モノを消費する流れに組み込まれるような気がして少し怖い。もうドップリ浸かっているような気がするけども。
 そして、今、思いもしていなかったことが起き始めている。本当にいきなりなのだけれど、ソローキンのめちゃくちゃな文章にとてつもない魅力を感じている。辛い辛いと読み進めていたのだけど、いきなり、これってもしかして、とてつもなく面白いかも…と、思い始めている。
 本当に、本当にいきなりやってきた。生命を繋げるために摂取しているくだらない昼飯を食っていた際に、ドカンと。今の今まで辛いなと思っていたものが、次の頁をめくった途端、ものすごく魅力的なものになる。今はこうした稚拙な言葉でしか説明できないのだけれど、どうやら右に述べた自身の感情といい方向で折り合いがつきそうな気がする。

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